知性とは何であろうか?


ども。御愛顧ありがとうございます。TBをもらったので釣られて何か反応して書いてみます。zaikabouさんに対するレスというよりは、あくまで反応としての一般論として、思うところを書いている、というかいつもの御託を並べております。御容赦ください。


2007-04-05

ところがどっこい、口説くのにも役に立たない。なにこの男、役にも立たない知識ヒケラカシテ馬鹿じゃないのああうざいウザイ、で終わりです。多分。意味の塊みたいなルネサンス美術を前にしたら、説明してウザがられるか説明できずに恥かくか、どっちかしかないんだから。第一、混んでいる。


だったらモダンアートになさいな。大抵、空いていて快適。作品自体に意味なんか無いので、じゃないや、確立された美術評論への回路なんてどうせ一般人には不可視なので、じっくり眺めたあとで「ぼくはいいとおもうなあああ、きみはどおおお?」とかそういうキャッキャウフフな会話をしても誰も馬鹿とは思わない、というか馬鹿だと思われてるんじゃないかしらと彼女に気取られることもないのです。多分。おそらく。で、併設されてるオサレなカフェででも語らってください。


あえて、マジレスしてみますと、日記を拝読する限りzaikabouさんもそうであると思うのだけれども、私は、女に限らず他人と美術館に行くことが最近はほぼないのですね。なぜかというなら、端的にペースと歩調が合わないし、ただでさえ饒舌なのが語るにとどまらず説教しかねないため。それも厭味に。幾度かの失敗を経て、到達した境地。自らを矯正するという発想にはあまり至らなかったのでした。


ふーん。奈良美智がいいんだ。ドキュメンタリー映画もABCがプッシュしてシネマライズにて上映しているらしいね。んん、松井冬子が面白い、と。絶世の美人のうえに狂気を感じるのか、君にとっては。わかった。おまえちょっとそこに座れ、正座しろ。いいか。おまえは間違ってる。おまえは圧倒的に間違っているうううううう!――ああ厭だ、って俺のことだ。


評価の構造がサロン的である、ということなのですよね。経済的な評価の構造も、経済の外部における評価の構造もまた。ただ、その高踏性において「こそ」世俗に還元される部分があるから「こそ」、文化が大衆社会という世俗において消費されるということがあるのは事実、文化的な階層構造の高低とその落差を利用することによって、文化商売は成立している。


ハイだのメインだのサブだのオタクだのB級だの鬼畜だのという言挙げは、常に言挙げる者自身が回収するし、その為にこそ彼らは言挙げをする。個人の文化的な言説におけるインセンティブなきこの「公共空間」たるブロゴスフィアにおいて、そうした観点を排することによって別の回路は開けないかしら、とは私は思っているのです。


たとえば――最適例を示すなら。finalvent氏を通して吉本隆明を、あるいは山本七平を読み始めた、あるいは改めて読み直した人は多いのではないかな、と私は思っているのです。


美術プロパーでもなんでもない人間にとって、経済の外部にある「美術」が今なお前提であるとは、全然考えようがないのですよ。まして「美術」ならぬ「アート」とは、相対的に並立する任意のジャンルの単位の話ではない。しかるに皮肉なことに、ジャンルとしての、マンガやアニメや映画ほどには、サロンの外部に言葉が届かないということはある。むろんのこと、大衆文化たるマンガもアニメもまた映画も、経済の外部にある評価のサロンとその文脈的な闘争は所在する。


そして「アート」なるものが相対的に並立する任意の「ジャンル」の単位としてしか認識されてはいないのですよね、少なくとも経済の外部において、関心なき人達にとっては。残る価値は、文化的な階層格差によって構成される「オサレ」か「お教養」としてのそれしかない。よって「松井冬子はない」という、経済の外部にある評価軸における任意の声なき声としての指摘は、時に失効する。経済の外部において一銭にもならずとも何も生産することなくとも、※※を※※と公的に示すこと。


根本敬が「イイ顔をしたオヤジ」について愛を込めて語った本を読むのは常にインテリである。山野一が最下層の貧民を描いたマンガを読むのは凡そスノッブである。根本敬も記しているけれども、描かれた当事者が読むことはまずない。彼らの作品はあまりに批評性に満ちているし、その批評性を解するには素養がいる。たとえば、私の感覚では、中原昌也がヤンキーであるという前提がわからない。彼の感性とは歴たるスノッブのそれです。そのことに羞恥と屈折を覚え再三表明するくらいに正統な。


私は今のように話題になる以前から松井冬子の絵の現物を見ているし『美術手帖』の日本画特集における山下裕二によるイチ早いインタビューについても目を通している(山下ははっきりと、松井冬子の技術に難を付けている。実際に見ると違うのです、あれは。そして、山下裕二は「ノリが悪い」ので、松井冬子も普通に受け答えてまともなインタビューになっている)けれども、Webやリアルの方々にて、つまり経済やメディアの多く関知しない場所で「松井冬子さんはイイ」という声を聞く。


「狂気が」とか本気で真に受けている。決して馬鹿ではない人間が。正直、勘弁してくれ、と私は思う。そして――どうする。おまえの趣味判断は圧倒的に間違っている、と私の見解を示すべきか、リアルの知人相手に。説教するべきか啓蒙するべきなのか、その必要があるのか、それをして誰が得するのか、技術論や商業的戦略を措いて、あれのどこがどうまずいかについて説くことが。


私は、審美以前にコンセプトの水準において、ないとすることが知性と理性ある人間にとっての常識の範疇であると思っていた。しかるにそうではないらしい。むろん、私が不見識であるかも知れないとは、付け加えておく。やはり、オタクであることは、そして分析への志向とそれを可とするリソースの涵養は、肝要であるな、とは駄洒落ではなく思っている次第なのです。


よって、時にディレッタントは諦観の境地へと至って黙る。そして心中ひそかに田吾作がと他を軽蔑する。不毛な生き物であるなぁ。非実作者が「現代美術」を語るとはやはりコンテクストという名の薀蓄を語ることであって、そして文脈間の闘争の名において、時に某が排除され、某は排斥され――経済の外部において非プロパーが私的にその選別をやって、どうなる。美術に限ったことでなく、私は時にそう思う。


相田みつをがなぜないのかを、ことにそのファンに対して「説明」することは、至難の業である。必要があるのかもわからない。むろん現実において相田みつをは圧倒的に勝利している。時に理論的にも。


そして経済の外部に所在する趣味判断のサロンは、あれはない、あるとする奴もないよ、お里が知れる、と、厭味で陰惨なことになる。コンテクストによって成立しコンテクストによって拘束される、任意の歴史的なるコンテクストの闘争の共同体、それが文化というものなのですけれどもね。


経済の外部に所在する趣味判断の使徒ディレッタントと呼ぶし、そのような存在の、時にお仲間以外の誰をも省みることのない公的な言挙げに何の意味があるのかと、ディレッタントの端末たる私は考えているよ。経済の支配する世界において。愚直に複数の社会的な文脈にリンクさせ分析して示すしかない、という結論に至るけれども。


余談ではあるけれども、ある人、いやはっきり書こう、音羽さんがブログにて言及していたので。木村カエラを私は贔屓してはいるのだけれども、あの人の書くリリックは、比喩的に言うなら相田みつをである。トータルなセンスについては措いても、リリックに拠る限り「単細胞」とは正直思う。倖田來未のそれについて言うことは意味がないと思うが、木村カエラのそれについては意味があるだろう。


私は彼女のラジオをよく聞くのだけれども、本人が繰り返し語っているのは、資本主義下における人形としての消費財にして消耗品たる少女が為した社会的なる自己という個の音楽という表現を通した実現とその他に対する啓蒙に尽きている。さて。文句を付ける余地と筋合がどこにあるのか?


以前――そう『ユリイカ』の文科系女子の特集であったか、佐々木敦が編集部によるFAXインタビューに答えて、「文科系女子」の範疇がわからない、編集部が挙げる木村カエラにはこの間インタビューしたけれども、全然「文科系女子」ではなかった、と記していた。


で――木村カエラからそれなんという相田みつを?な説教をリリックにて説かれて、何が言える。happiness!!!ですよReal Life Real HeartですよYouですよMagic Musicですよ。突っ込むべきなのか、大人げもなく、とびきりにキュートな、まっすぐに背筋を伸ばして立っている体育会系女子の本心の叫びに対して。私のごとき背の曲がったヨゴレに向けられた言葉であるはずもない。


それとも、他なる歳若き誰かの為に「啓蒙臭が他に対する抑圧として機能する蓋然」について指摘するべきなのか。かような邪な人間の言葉に、力はあるのであろうか。シニカルで冷笑的で非生産的なディレッタントマスターベーションに留まることのない力が。昔、降谷建志のリリックが持ち上げられていた頃に、勝手に切実に考えたことであった。1周回ったし、私の意識もそれなりに齢を取った。おそらくは先方も。


結局、既存の何かを腐すよりは対抗軸としての何かを新規に構成したほうが生産的だよね、というポジティブ極まる紋切型へと帰着してしまう。そして私は今日もブログを更新する。何かをダメと言うよりは、何かをないとするよりは、何かが有ることを示すほうがよいのだ、きっと。だが、ちょっと待ってほしい。ホリエモンも似たようなことを言っていた。逮捕前に。


無意味でなく有意味にポジティブな言説とは、現実と理論の両面において圧倒的に強く正しい。時に「文化的」にして「知的」なる私達は邪な半畳によってしか、それに対抗することのない。しかるにそのような、電球のひとつも発明することのない「文化」とは「知性」とは、何であろうか?――最後は別の話になってしまいました。失礼。


古典教養そこつ講座 (文春文庫)

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↑「時に文明は文化に逆立ちする」――という言が。