ブクマ代わりに長いメモ


http://www.asahi.com/edu/news/TKY200703290334.html


http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20070330ur01.htm


私が小学生の頃は、担任教師の方針というか情熱の計値にも拠ったけれども、道徳の時間は自習であった。高学年の時の若き熱血担任は、文字通りのディベートをクラスの内にて開催していた。以前も書いたことではあるけれど、小学6年生に死刑制度について学級単位で「ディベート」をさせる教師というのも、なんというか、乙なもの也。みな面白がって議論が白熱したりもして。担任の人徳であったとは思う。私は当時の彼の年齢を越してしまっているのだなぁ。どうしているだろう。S先生は。


たとえば――真善美を教えたいとするのも構わないけれども、その際は、真善美がそれぞれ一致しないということをこそ教えてほしい。真と善と美が分節され時に相互に相対化されるものであるということを。それが最低線の近代の教育というものではなかろか。詩的精神よりも散文的精神をこそ涵養されたい。つまり、各教科を個別にキッチリ叩き込んだほうがよいし、そうするしかないのではないですか、知識偏重であろうと。

 29日の第1分科会後に記者会見した副主査の小野元之氏(元文部科学事務次官)は「道徳を教科としてしっかり教えるべきだ、ということでおおむね(分科会の)合意が得られた」と述べた。「授業時間数を増やそうということではない」(小野氏)が、高校でも教科にすることを想定しているという。

 また、主査の白石真澄氏(東洋大教授)は、成績評価の対象になるかどうかについて「議論していない」としながらも、「教科になるということは、いま絶対評価で1〜5と成績がついているので将来的には成績判定がなされると思う」と語った。ただ、白石氏は「戦前の修身のように先祖返りするのではなく、人としてどのように生きるか、他人をどう思いやるか。命あるものを尊重すること(を教えること)で環境教育にもつながる。全体主義になったり、右になったりするわけではない」と強調した。

あまり詳しくないし、ことさらに関心ある話でもないので、私見と断るけれども。近代国家において制度的に倫理観と規範意識を教育するとは、一義的には、倫理観と規範意識を相対化する視座を涵養しその方法論を教育するということでしょう。むろん、倫理観と規範意識一般を相対化したうえ再帰的に自己の倫理観と規範意識を個人におかれて定位し直すこととは、それらを一概に否定すること否認することとは一致しない。勘違いしていた人が教育の現場にいたことは事実です。


道徳教育とは、第一に、道徳の何たるかについて闊達に論じ合える環境を設定し、その敷衍を志向すること。それが近代的な「社会」概念の試行の現場としての「教育」というもの。極端から極端に走るというのはなんとも。そうした発想全般を戒めるのが「教育」とその効能であったはずですが、と、いまだに大学というものに抽象的に憧れたりもする人が記す。


ま、確かに思うところはある。街中にて「ゆとり」とか頭の中で脊髄反射的に呟くこともあります。さて。オーダーは――パリスアイランドですか薬理による機能的制御ですか関係性の試行ですか知的認識的な構成ですか。前二者を論外であるとするなら、後二者を愚直に組み立て直すしかないでしょう、制度の枠組に可能な範囲において。


私は、知的認識的にも関係性においても、制度の列外、いわゆる「独学」の人であるから、個人的には何とも言えない。パリスアイランドもまた薬理による機能的制御も、いささか身をもって体験はしましたが、やはり一般的な敷衍と制度化はよくないよ、あれは。――言うまでもないか。

第1次報告では「我が国が培ってきた倫理観や規範意識を子供たちが確実に身につける」と提言しており、再生会議で充実策を検討してきた。


思うことは。もしそうであるなら、ということだけれども。普遍主義という枠組の外部にある日本の固有のコンテクストを、制度化された近代国家の教育を通して個々人の意識において涵養されたい、として実現を図ることは、現代の日本においては現実にも無理筋でしょう、と。


「日本の固有のコンテクスト」が「美しく」継承されることはない、私は確信している。というか「日本の固有のコンテクスト」を教育という制度のもと個々人の意識においてポジティブにインストールし涵養したいと考えるなら、教育再生会議は直ちに三顧の礼をもって斎藤孝先生を迎えるべきです。


つまり「日本の固有のコンテクスト」を教育という制度のもと若い世代に肯定的に継承し涵養したいと考えるなら、近代という無粋にして堅牢な意識と認識の制度の枠組のもとそれを実践することには、およそ効果がない。


万事は嘘をつくことのない「私」の身体と感性と情緒と生理に根ざしている。言語化/階梯化し得ない不可知にこそ。日本人の本質は私達の偽りなき感覚と身体に宿るのです。それもまた、捏造されたフェイクであると相対化してしまうのが、斎藤氏含めた近代的な認識の視座を持つインテリの野暮なつまらない意識とロゴスの桎梏であるわけ。


であるから――正直な体と心に問い合わせるのですよ、ナチュラルに、無意識の音色に耳を澄ませるのです、受け継がれる、「私」の内なる日本人としてのDNAに。而して個々人の内部において内在的に見出された交換不可能な本質こそが「日本の固有のコンテクスト」の血肉化した歴史的身体性/感受性であるのです。


ま、分裂はいずれにせよ必然であるわけだから、愚直に近代の視座と方法論の再試行を貫徹したほうが、いっそう引き裂かれて劇的なのではないかと。日本の近代の宿命を、明治の知識人のごとく体感し得ることでしょう。「バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う」必要がありますな、まったく。


屈折した皮肉は措いて(皮肉です為念)、真面目な話、果たしてプロトコルの涵養を企図しているのか、内在的なる意識と自覚の涵養を企図しているのか、記事に目を通した限りではわかりかねるところであるし(いや先行する諸々の話は知っているけれども、あまり決め付けても仕方がない)、そもそも両者は分岐するという認識があるのか。あるいは区別するという発想があるのか。


私はプロトコルの涵養には原則的には賛成するし、プロトコルを志向する前提的な意識の涵養についても賛成はするけれども、制度化された教育に拠ってその涵養を企図するなら、面倒な百家争鳴のもとクリアさるべき了解としての合意事項が幾段階も所在すると思う。なお、斎藤孝氏はリテラルプロトコルの人でありその伝道師です。贔屓はしないが、私は嫌いではない。


ゆえに具体性についてはスルーさるべき話であるわけですが。百家争鳴を喚起する気もなかろうし。制度的に言うなら、多く私的な儀礼については、民間における個々人間の個別的で臨機応変でディーセントで「しなやか」なコモンセンスにまず拠るべき、と言わざるを得ない。何も言っていない「振り出しに戻る」も同じ言い種ではあるけれども。――だから「公」なら他にやるべき業務があるでしょと。国民をむやみに見下げてどうするの、と。