『ブラック・ダリア』を観ていて個人的に考えた16の案件


ヒラリー・スワンクがダッチワイフにしか見えない件。

スカーレット・ヨハンソンがマネキンにしか見えない件。

・モノクロのブラックダリア嬢がアンドロイドか亡霊にしか見えない件。というか生きている女も生霊にしか見えない件。

ジョシュ・ハートネットの顔が某シリアルキラーにしか私には見えなかった件(画像探せなかったけれども、顔が似ているのです。アッー!でしたが、いまだに名前が出てこない。ウィリアム・ヘイレンスかと思ったら違った。10年前の猟奇犯罪マニアもヤキが回ったもの)。

アーロン・エッカートの白い歯を剥いた笑顔をどこかで見かけたなと思ったら、ショーン・ペンの『プレッジ』に登場するDQN刑事じゃないか、と合点がいった件。

デ・パルマの演出に登場人物の陰翳の描写を要求してはいけない件。

デ・パルマ作品において登場人物の心理の存在を前提してはならない件。

デ・パルマが複雑なストーリーを記述することに不得手なのは昔からである件(「映像派」とされる作家の悪癖として、映像を通じて映像自体を語ることには執着するし「雄弁」なのであるが、映像を通じてストーリーを楷書的に記述することには長けていない。宮崎駿ですらも。シーンの接続と連続性、ひいてはトータリティーへの差配の問題。たとえばであるけれど、キューブリックコーエン兄弟などはそうではない)。

デ・パルマの女性観もまた健在である件(デ・パルマにとって女とは官能というイメージの図像でしかない件。それゆえに、映像作家としては面白く素晴らしい件)。

・ゆえに、女優が近代的な自我なき官能の表象(=性的人形)にしか見えないのは彼女達の咎ではないうえ、確信犯デ・パルマの功績、ひいては存在意義ですらある件。

デ・パルマ映画の登場人物に近代的な内面や心理などは多く最初からなく、デ・パルマに精緻な人間ドラマなど誰も求めていない、デ・パルマの演出を乱暴と評しても何も言ったことにはならない件。

・比べるべきなのかよくわからないが『L.A.コンフィデンシャル』のカーティス・ハンソンの格調ある端正な演出に、相対性に準拠して改めて気付かされた件。

・『笑う男』の絵は、現実の連続殺人犯ジョン・ウェイン・ゲイシーが描いたピエロとしての自画像が元ネタ、と指摘してインデックスに加えてほしいんでしょうね、一目瞭然の事項を、な件。

ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』をやたらと想起した件、と思ったら中野翠氏が同様のことをコラムに書いていた件。

・結論的には、デ・パルマの映画は歌舞伎であって、その演出は大見得を切っているのだと考えれば楽しく映像の見得を堪能できるという件。

・そんなデ・パルマが私は昔から好きで、もうひと花咲かせてくれて何はともあれ嬉しかった件。