時機外れて振り返る


音羽理史さん、短くはあったけれど冷静な返事をしてくださって、有難く思います。以下はそれに対する更なる返事ではあるのですけれども、なぜ新規エントリにしているのかというと、まず単純にこのブログデザインだとどうも長文コメントが読みづらいし記し難いというのがあるのですが。それよりも。貴方の更なる御返事を読んで色々と考えていた。そして今日、とあるアルファとされる方のエントリを読んだ。他の方の関連(しているようでそうではない)エントリもいくつか(なお記しておくと土曜夜のNHK特番は見ていない)。まず、音羽さんに対する謝罪はちゃんとエントリにて記すべきであろうと思いました。私の誤解ないし勘違いについてもまた。そして、私もいくばくか共有してはいるであろう貴方の問題意識に(おそらくは)沿った形で「死ぬ死ぬ詐欺」告発運動について記してみます。であるからこれは前エントリのコメ欄の続編ではあるけれども、音羽さんへの反論等では一切ないし、音羽さんのコメントを引用するわけでもない。貴方に対する「言及」とも異なると思う。貴方が残していかれた言葉に対する、私なりの包括的な返答に過ぎません。


その本を読んでないのでなんか言うのもなんだが - finalventの日記


私もまた佐々木氏の当該著書は読んでいないのだけれども「ネットvs.リアルの衝突」というタームは誠に事態を言い得て妙であるな、とは思いました。音和さんは佐々木氏に関心がないのであろうし、かかるフレーズを氏がいかなる意図をもって使用しているのかについては当該書を参照しなければわからないわけですが。音羽さんが現状のWebについて問題としている事柄もまた「ネットvsリアル」というフレーズが指示する構図に部分的には集約されるものではあるでしょう。そして、かかる対立構図が「衝突」として「現実的」に前景化した局面のひとつが、かの「死ぬ死ぬ詐欺」告発運動であった。


音羽さん、貴方に改めて謝罪しなければなりません。貴方がコメントにおいて問題とした箇所の記述において、貴方が「自己の問題意識」に接触する事柄に対して、「自己の問題意識」を主張し得る機会として任意に「死ぬ死ぬ詐欺」に言及した、すなわち「自己の問題意識」を表明する「ダシ」として「死ぬ死ぬ詐欺」に言及した、と閲覧者が受け取りかねない表現を用いてしまった点について、かつかかる表現を招いた原因が、私自身もまたそう思っていたという点にあったこと、ここに深く謝罪いたします。貴方の最初のコメントを(レスを記すために)引用していて、ようやく気が付いた。貴方は「死ぬ死ぬ詐欺」について(「祭」としては沈静化した)現在においても気に掛け貴方なりに心を痛めている。自らが言及した事柄について継続的に考え続けている。私は誤解と勘違いをしていました。本当に、申し訳ありません。我が不明の非と、かかる事実を補足する旨、ここに明記します。


ネットにおける(「祭」としての)ムーブメントが結果的にリアルに対して深甚な影響を及ぼしかねなくなる。「死ぬ死ぬ詐欺」告発運動とはその顕著な実例であった。そのこと自体の是非は、私は措く。しかし、かかる「結果性」に対して無自覚な「便乗者」を批判すること私もまたやぶさかでない。問題は「検討者」と「便乗者」の分別は可能であるか、ということです。結局のところ、貴方に対する返事の中にて記したことではありますが、一切は表出されたコミットメントの内実によってしか計り得ない。私は貴方を「便乗者」と思っていました。そうではなかった。貴方は貴方の論理に基づいて、当該問題に対して継続的に考え続けていた。それは、貴方にとっては取り違えて欲しくはない、重要なことです。であるから、この新規エントリにおいて訂正し補足させていただきます。すみません。


臓器移植をめぐる無数の問題のいくらかについて私は以前から知ってはいる。個別に検討するべき課題であることは言うまでもない。そのことと、結果的にではあるが任意の女児が移植手術を受け得る可能性が蓋然的に減少しかねないという予測の勘定は、別個の問題である。別個の問題であるから、検討ないし検証は自由であり無問題である。しかるにネットにおける検討ないし検証がリアルに影響を及ぼし得る「結果性」は検討ないし検証作業において前提されるべきとも思う。「結果性」を前提しない検討者は、それが無自覚によるものであれば批判を受けても仕方がない。かかる告発の「祭」としての渦中においてそう判断されてやむをえない発言が噴出したのは、2chであるから仕方がないとはいえ事実である。無数の「便乗者」の介在は自明の事柄であり、ネットにおけるムーブメントとはシステム的につねそうしたものである。その極端かつ集中的な事例を「祭」と呼ぶ。


であるから「祭」とはシステムが蓋然するリスクとその処理の問題なのだが、それに対して憤りから「便乗者の悪意」を言挙げたところで「便乗者」には届き得ないしクリティカルな批判とはなり得ない。悪意が流通し伝播するシステムの蓋然としての糊代が前提しているのであるから。「任意の女児の人命」をもって「悪意」を批判するというのは、感情論の応酬というフレームに拠って処理されかねないし、一般的に言って、多くネットの個別的な局面においては感情は論理に敗北し善意は悪意に敗北します。たとえ論理が似非論理であろうとも。人為的なフレーミングが短期的かつ暫定的な判断においては一切を左右するということです。そしてネットとは常に短期的な判断と処理が反復する空間であり要請されるニーズとは常に即時的な暫定解です。ネットのリアルに対する越権ないし侵犯を無自覚性に準拠して問題とするのであれば、越権と侵犯は事実として構造的にも食い止めようがないのだから、越権と侵犯への自覚の要を説くしかないでしょう。しかし。


行為は行為者の予期し得ない結果を蓋然する。ことネットにおいては。蓋然性を行為において勘定することこそが倫理(=モラル)としてもリスクヘッジとしても求められる。問題は、蓋然性を前提して行為する確信犯の存在であるが、なら実際面の見地に基づき倫理要諦としての意義など解除して、ネットにおいては誰もが蓋然性を前提する確信犯として振舞いましょう、善悪もまた振る舞いという表出とその受容の位相ないし個別的な文脈に拠ってジャッジされます、というリスクヘッジを前提したプラグマティックな話へと移行するしかない。ネットにおいて倫理ないし善悪を模索することよりも、システムを前提して賢明に振舞うことが優先される、と。不案内ではありますが、いわゆる社会システム論とはこうしたものなのであろうか。


これは貴方に示すソースとしてのリンクでしかないから先方に対してトラバは送りませんが、言うまでもなく『シム宇宙の内側にて』の管理人氏はこうした問題の所在を把握している。氏は「結果性」に対して無自覚な「便乗者」に対してかかる事柄についてあえてインフォしてもいた「検討者」である。ただ繰り返すけれども「死ぬ死ぬ詐欺」の件に関して貴方が「便乗者」とは言えないと、私個人は今思う。


シム宇宙の内側にて あなたは人の死を幇助していることを理解しているか


そして、貴方は(ネットにおいて用いられる際には)言葉もまた概念も認めないようだけれども、かかる「ネットというシステムを前提して賢明に振舞うための(モラル以前の)実際的な方法論」のひとつとしてあるのが「リテラシー」とされる概念です。「リテラシー」という言葉と概念が恣意的に濫用されるケースが数多あることは知っている。また恣意的に運用すれば倫理もへったくれもなくなる概念というか言い種である。言葉遊びではないのだけれども、倫理を前提しないプラグマティックな方法論の倫理性とは、人的要素の介在によって示される。利用者が賢明でないことを前提とした、工学的なプラグマティズムの実施よりは、利用者のいくばくかの賢明をこそ前提する方法論のほうが妥当であろうとは、私は思う。繰り返しになるけれども。賢明とは善悪倫理とは一義的には関係がないが、方法論の運用における最適性を担保する。


あらゆる言語情報とは「事象」の他者による言語化という人工的な加工を経たいわば二次的な情報です。人的な加工を経ないナマモノの情報こそが一次情報という「事象」であり、一次情報に準拠したうえでそれを言語に加工し概念ないし言説として流通させる営為こそが人的な言説発信にして情報生産の古典的な原則です。しかるに構造的に、ネットを流通する情報とは多く二次的情報であり三次的情報である。加工を経た情報。加工に更なる加工を加えた情報。加工に際してときには複数の恣意性ないし錯誤が介在し「改変」を結果しているかも知れない、前提的な「チェック機能」なき二次三次情報。かかる人工情報に必然的に準拠しそれを識別し操作することによってネットにおける情報ないし言説とは多く発信される。以上はネットのシステムとしての限界の範疇に属する事項であって、その限界のうえに情報識別ないし情報操作の方法論が築かれる。加工情報の操作と識別とは対応関係にあり、操作にもまた識別にも人的な恣意が関与し得る。そうした設計規則の限界を前提して導入されたリスクヘッジの段階的な最適解として、ソースの明示と精査が要請され、識別における、提示された情報の加工性に対する意識ないし認識が不可欠となる。


釣られず踊らされないためのプラグマティックかつ汎用的な方法論として普及している原理原則は(システム的な問題である以上)ローカルルールを横断するがゆえにネットの人的な「内輪」とは関係がなく、以上を「リテラシー」の一語で呼んでしまえば(恣意的に濫用された言葉と概念であるがゆえに)語弊と誤解が介在するかも知れないけれども、たとえば交通法規は多く倫理的な議論とは関係がなく、クルマが左側通行であることに倫理は無関係であるうえに正統的な理由もまた存在しないが、かかる規則を厳守しないことには事故が発生する。そして、事故の発生を防ぐために左側車線を走行することこそが運転者のモラルを証し交通法規の正統性はかかる相互了解的な人的ファクターに拠って維持されている。方法論の倫理とは合意によってしか確立も維持もされず、合意に至る倫理とは常に方法論としての倫理でしかない。一切は、加工情報が蓋然的に有する恣意性に対する安全装置でありストッパーでしかない。それを工学的な調整によって一括的に導入するか個々人において個別的に導入するか、分岐点となります。


これは貴方に対する言葉ではないし特定個人を指すものでもない(貴方はその解を採らないだろうから)、かつ私見であると断りますが、そもそも工学的な技術を前提して招来された事態であるとはいえ、かかる事態において存在する、モラルに接触する問題について工学的調整の導入に拠って「モラル的」な解決を図ろうとするべきではないし、倫理的な解決を人的な試行錯誤なきまま工学的操作に委ねるべきではない。倫理観念とは常に恣意にさらされ得る。倫理観念を恣意的に操作し意図をもって敷衍適用する者が蓋然的につね存在するということです。つまりは個人に属する倫理と公共概念の置き換えないし取り違えと前提としての相互了解的な検討プロセスの省略であり、倫理概念の強制性についての無自覚ないし恣意的な濫用です。


ただ前述の通り、行為の「結果性」に対する無自覚等としての(いわゆる一般的な意味における)倫理性の捨象ないし無検討が、廚であれ確信犯であれ横行する局面がネットにおいて無数に存在している状況が事実としてある以上、倫理概念の強制性の発動に対して切実な必然を感じる人達がいることは、わかるのです。「祭」における「便乗者」の(暗黙の規則を形成する合意としての)モラルに対する無検討性が前景化した事象として、あの告発運動を受け取った人の感性を、私個人もまた勘定しないものではない。ただし、かの告発運動は総体として観測したならそれにのみとどまるものではない。両局面の狭境に対する観測こそが、必要であると私個人は思います。両局面とは善悪のことでも功罪のことでもない。かかる二元論的な判断基準の単純化を本気で信じることを、私は忌避するので。なお「検討者」と「便乗者」が現実的に精確に二分できるはずもないことは承知の上です。整理を意図した一種の「理念型」でしかない。ただ味噌糞という分別を私はつね前提する。この種のスタティックな発想自体が、現実切断的なWeb者のそれであると言うなら、認めます。以上、あくまで限定的な枠に拠った返事でしかないし、私個人のフレームという関数を我田引水的に挿入し過ぎているとは思うけれども、貴方の簡潔なレスに対する、返事として記します。締め括りとしての。