「受賞」をめぐる発言に目を通しての雑感


ふとアクセス解析を試みる。例のエントリの関連で来訪されている方が月曜あたりから再び増えた。もう収まりはしたが。理由は知っている。ここ数日、氏について幾度も好意的なスタンスから言及されているブロガーの方もいる(私とはいささか見解が違うが。同意する点もいくつかある)。私が触れる要があるのか、とは思ったが、当該のエントリの当日のアクセスがえらいことになっていた手前、一応「sk-44の見解」というものは記しておくべきなのであろう。「小倉ルール」ではないが、当該記事の内容自体にのみ準拠して感想を記す。自らがパブリクションとして提示した主張や見解や問題意識に準拠せずに、自分自身に対して論評を下されることを氏は不本意とするであろうから(私もまた嫌だ)。なお小倉秀夫氏に関しては、氏の新規の発言に対して的確な批判的指摘としてのエントリがいくつも掲示されている → はてなブックマーク - ネット上の誹謗中傷といじめの関係: la_causette 以上、私が言うべきことは特にない。というか、どういう人であるのか、よくわかった。まず私の当該エントリを。


小倉氏のエントリに対して思う - 地を這う難破船


以下は、ブクマが大量に付いている記事でもあり、今更インフォの意味もあまりない。ただ当ブログにて紹介はしておく。私はオーマイニュースというメディア自体に対しては昔も今も関心が薄いため、内部事情についても不案内である。むろん下記リンクにて批判されている佐々木俊尚氏の記事やBigBang氏による関連エントリ一連等にはあらかた目を通している。いったん掲示された記事が削除された理由についてはわからない。上に記したブロガーの方のコメ欄にて記事執筆者本人が事情についてわずかに語ってもいる。「編集部の不手際」であり記事自体は「実はまだ書き直してる」という。真相は知らない。であるからその点については触れない。


http://megalodon.jp/?url=http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx%3fnews_id%3d000000003392&date=20061203170733


http://megalodon.jp/?url=http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx%3fnews_id%3d000000003512&date=20061203170856


私が言及の要を覚えたのは、ブクマの量が示す「注目度」とは反対に、佐々木氏への批判を意図したものではない下の方の記事に対してである。いつものことであるが、強気で高飛車な筆の調子と飛躍的な語り口については(分量的な制限もあろうし)措く。「おまえが言うな」「どの口が言う」という批判のまったくの妥当についても措く。私は音羽氏の件に限らず、発言の検討に際してはそういったスタンスを取らない。措いたなら、下の記事にて記されている主張こそが、掛け値なしに、自己エントリにて私が記した「音羽氏の中心的な問題意識」の要点的な一切では、ある。少なくとも記事執筆者当人にとっては、おためごかしの空論では、ない。ここ数ヶ月の記事執筆者の行動を規定する、一貫した問題意識の在所である。ブクマコメントに肯定的とも読み取り得る評が見られたのも、頷けないことではない(佐々木氏批判記事におけるブクマコメにおいては肯定的な評がいくつか窺えた)。以前記した通り、かかる問題意識の所在とその掲示については、私は大筋では異論はない。ごもっとも、であって対論的な異論を示す気にはならない、ということだ。ただ、私が全面的に同意するかと言えば、補足しておきたい相違が大いに存在するのであって。「今回の受賞を批判したブロガー」のひとりとして、ちょっと対応的な見解を以下、記してみる。


上述したが、私はオーマイニュース自体に発足時も現在もさして関心がない。つまりは期待していなかった。ワッチの対象ですらない。であるから「オマニー」やその編集部を、あるいはその「傾向」を批判する意図も筋合いも資格もない。私が批判したのは鳥越氏による「編集長賞」の授与とその「講評」に見られた氏の個人的な恣意の存在についてであって、それ以上ではまったくない。放言するなら、そもそもオーマイの「賞」とはいかなる名誉であるのかそもそも私個人はわかりかねるのであるが、それはオーマイの全関係者に対する部外者による半畳であり非礼であるから、公的にそのような観点から批判するわけにはいかないし、批判としては成立しないものでもある。


私がワッチしていたのは「死ぬ死ぬ詐欺」騒動に関する事柄に限定される。音羽氏はそれに言及した当事者であった。私もいくらかは言及した。であるから「オーマイの市民記者である音羽理史」と意識して認識したこともない。ゆえに、その投稿内容ないし振る舞いは「記者」としてどうよ、とは私個人は批判しない。ただし本人が「記者」として所属する「オーマイニュース」の団体としての公式的な姿勢からは逸脱した言動であろうな、とは思う。とはいえ私は「オーマイニュースの団体としての公式的な姿勢」を支持しかねる部分があるので、その観点から「逸脱者」を批判する気はない。


音羽氏は「市民記者」という概念や「音羽記者」と自らが呼ばれることそして自らに「オーマイニュースの市民記者としての責」を求める意見に対して再三違和感を表明しているが、それを私はわからないでもない。かかる違和を再三表明している本人が「市民記者賞」を受賞したことこそが、本件の最大の皮肉である、とは思うし、私が妥当と考える批判者の指摘もまたその点に準拠している。元ねらー云々という批判は鳥越氏の恣意にこそ問題があると私は考えるが、「オーマイの市民記者」というアイデンティティを自らに対して認めず、そのことを言動によって証明している所属としての「記者」が「市民記者賞」を受賞した点は、批判されても仕方がないかな、とは思う。私は頼まれても「市民記者」など務める気はないし、先方としてもお断りであろう。で、この矛盾にこそ音羽氏の問題意識が反映されているのであろう、とは思う。


私は音羽氏が「オーマイニュースの市民記者」として「実名記事」を掲示することにこだわる理由が解せなかった。当該の削除された新規記事を読んで、最後の1ピースが埋まった。自らのブログエントリを真面目に淡々と更新していったらよいのでは、などという私の見当はまったく的外れであったらしい。音羽氏の問題意識に準拠したならば、私もまたブロゴスフィアだの2chだの既存メディアだの(括弧付きの)「オーマイ」だのといったローカルなWeb村の「内輪」の「繋がり」しか視界にない視野狭窄人間の一員なのであろう。そして、そういった音羽氏個人の問題意識は私もまた個人的には勘定している事柄であるし、Webにアクティブにコミットしている「倫理的」な人間が必ず抱くことになっている問題意識ではある。「倫理的」であることは首肯し得ることであるとは限らない。ただその種の(すなわち広義の「倫理」という観点からの問題意識を抱える)人間が現在のWebの状況に直面すればそれはそうなる。当事者性とは別個に。「死ぬ死ぬ詐欺」騒動の際に「当該団体や女児の両親およびその支援者の姿勢に対する批判的な検証者とその便乗者」達に対して「ねらー」と概括して(2chが大規模な検証活動の発信源となったことは事実であるが)いささかナイーブな非難の声を上げた人達は多く、そうした「倫理的」な人達であった。そして彼らの「倫理性」に対して、私は同意していたのであるが。個人的な問題意識の表出方法における瑕疵が、常に摩擦を引き起こすブロゴスフィアではある。


音羽氏に関して、書き落としていたことがいくつかある。あそこまで言及した以上は遺漏についても記しておくべきであろうと思ったことが、さらなる新規エントリを起こした理由のひとつでもある。まず、音羽氏にいわゆる世俗的な「功名心」はまったくないし既存メディアでどうこう、という願望もない。あえて氏本人が嫌うであろう表現を用いれば、氏はそのような「キャラ」ではない。そのようなことを意識しているなら言動があまりに裏目で裏筋である。有名性と、功名ないし名声とは異なる。かかる「悪名」としての有名性もまた、まさに「内輪」としてのWebに限定された話であり、音羽氏はかかるWebの「内輪」に準拠してはいない、つもりであるらしい。単にそうした観点からの揶揄はおそらく本人にとって的外れであろうと思うから記しているのであるが。


また、音羽氏の例の記事以降の各所における言動は支離滅裂にも見えるし実際表面的にはそうであるのだが、本人にとっては首尾一貫している、のであるらしい。つまり、音羽氏のプライオリティの最上位にはただ自らの個人的な問題意識のみがあって、個別的かつ具体的な言動も含めた他の一切は、最上位の審級にある氏個人の問題意識にのみ従属する。それを小倉氏は一般論として「善」と名指したのであろうが。


そして、もっとも重要なのは、音羽氏はかかる自らの問題意識に基づき行動し発言しはするが、自己の内的な問題意識と直接には関係しない具体的な外部の事象に対して、無頓着かつ無関心である、という点だ。氏は自らの問題意識に基づき「死ぬ死ぬ詐欺」の検証者とその便乗者を概括して批判はしたが、「死ぬ死ぬ詐欺」やその検証活動の具体的かつ個別的な問題の所在とその資料に準じた検討に関しては、一切無関心であった。氏に当該の記事を記させた動機とはただ氏自身の問題意識にしかなく、問題意識の表明はなされたが、氏は「死ぬ死ぬ詐欺」やまして臓器移植に対する具体的な関心を終始持つことはなかった。氏にとって、自らの問題意識を表明する契機とさえなり得たなら、対象事例の資料に準じた具体的な検討など鑑みるに値しなかった。


「シム宇宙の内側にて」のコメ欄における管理人氏やコメンテーター諸氏との徹底したディスコミュニケーションと議論の不成立、そして音羽氏の非礼と暴言等々は、この点に由来する。音羽氏は臓器移植をめぐる問題について、いやそれ以前に当該問題をめぐるあらゆる具体的な事象の個別的な検討に対して、なんらコミットしてはいなかった。医学的な資料に対してもそれに記載された現実の患者に対しても。「死ぬ死ぬ詐欺」や臓器移植の問題に対して自己の関心から深くコミットしてもいた当該サイトの管理人氏が呆れるのは当然のことである。しかるに、本人が関心を持たない問題をめぐっての事実認識および論理面に関して「論破」したところで、音羽氏にとってはクリティカルな批判とはなり得ない。氏の一見場当たりな言動はすべて、氏の個人的な問題意識にのみ律され、問題意識に則したなら一切は一貫している。――私は価値判断的な是非をあえて措いて記している。為念。


事実認識に対して問題意識が優先しときに越権する。事実認識が問題意識に対して従属する傾向にある。かかる価値観に拠る以上、個人的な問題意識を公的な問題提起として成立させることは困難である、と言わざるを得ない。他人は問題意識でなく事実ないしそれに準じた情報によって説得されるから。説得によって問題意識は共有される。事実ないしそれに準じた情報の性質およびそのインフォの方法的な性質に準拠して価値判断に及ぶ説得が成立するがゆえに、事実ないしそれに準じた情報およびそのインフォの方法的な性質に対する留意と精査が発信者受信者双方において要請される。かかる相互的な関係こそがWebにおけるリテラシーとして定義される。受信者云々の議論とは、受信者に対してのみ負荷を要求するものとは一概には言えない。であるからこそ、かかる認識全般に対する欠落ないし無視ないしネグレクトが、個人的な問題意識を公的な問題として提起する際における、決定的な瑕疵として関係してくるのだ。個人的な問題意識の表出方法には留意しなければならない、まして、それをパブリックな問題提起としたいのであればなおのこと。言葉(というかデジタルな字面)をのみ介したコミュニケーションにおいては、問題意識や価値判断のみに拠って他人は説得されてはくれないし同意してもくれない。私も含めて、納得することならあり得るが。ただし納得とは個人的な寛容に依存している。


かかる音羽氏の問題意識に対する私の見解へと移行するのだが、私の見解は二重というか二枚腰である。ところで、氏の言動における氏個人の問題意識にのみ拠った一貫性の証左ということでもないのだが。「受賞」の直後に、氏が不快の表明を含んだコメントを残した、氏自身について言及した複数のブログエントリとは、氏の唾棄する「内輪」的な「ネタ」として件の受賞を論評していたエントリであった。補足するが、私はそうした記事に笑い、大いに楽しんだ。音羽氏の言う「内輪」的な文脈から面白く事態を処理してみせた「ネタ」として。であるから各々の管理人氏に含むところはない。あまり文章における笑いの才もないし、多少は関わった件でもあるから、自分が取り上げるなら真面目にやるか、という位置分担意識が機能したに過ぎない。


ただし、当該の複数のエントリにおける、あえて「内輪」的なネタとして音羽氏とオーマイをめぐる一連の事態を処理してみせたスタンスに対して氏がわざわざ不快を表明したのは、音羽氏の個人的な問題意識に則したならば、コメントの内容自体はともかく、行動としては筋は通ってもいる。一方のブログエントリが、音羽氏も新規の記事において記しているが「コミュニティから締め出されたも同然の」と当初揶揄的に記述していたことは事実であり、それに対応する音羽氏のコメントもコメントであったとはいえ、結局「コミュニティ」とは何か、ということについては明確に解答してはいないし、音羽氏を説得し得る形で回答することはおそらく不可能であろう。そのネタ記事には大いに笑わせてもらったことを明記しておくが、野暮なことを言えば。つまるところコミュニティとは当該エントリにおける具体的例示に準じたところではてな村(あるいはブロゴスフィア)と2chのことでしかない。はてな村2chのローカルな「内輪」とそれにのみ向いた視線など知ることか、というのが音羽氏の問題意識であるから「ネタ」文脈に準じての揶揄は、少なくとも本人にとっては無効であろう。他人事であることもあって、私は楽しむわけだが。


私の見解の二重性ないし二枚腰性とは、そういったことである。私ははてな2chといった「内輪」にのみ流通する文脈を楽しんでもいるし、しかるに一方でその弊害を知ってもいるし風潮には棹差したくもある。私の姿勢においては両方存在する。「内輪」は楽しいが「内輪」にはそれゆえの問題が存在する。問題を意識したうえで「内輪」を楽しみ、たまにその「問題」を自分の手の届く範囲で言挙げてみる、というスタンスかな。そうである以上、音羽氏の問題意識の所在については了解しているのであるが、全面的に同意するわけにもいきかねる。結局のところ、人は工学によってあるいは慣例によって設計された遊戯の規則からは、チェスボードに乗った以上は逃れ得ない。チェスの駒以外として振舞うことは、盤上においては極めて困難である。音羽氏はその困難について認識してはいるのであろうし、であるからこそ氏はオーマイニュースという「新機軸」でもあった媒体に実名記事を投稿することにいまだに賭けているのであろう。氏の賭金の対象とは「編集部」や「事業としての体制」や括弧付きの旧体制的な「ジャーナリズム」ではない。2chブロゴスフィアといった「内輪」のローカルルールに束縛されない「オーマイニュースにおける自己記事の読者」すなわち氏の言うところの「新しい人」達である。そのような存在が成立するか、と問われたなら、難しい、少なくともオーマイという「新規」の情報発信媒体においては、と答えるのが私の見解である。


確かに。現状日本語圏のWebにおいては一切がゲームの規則ですよ。2chの規則もはてなのあるいはブロゴスフィアの規則もむろんSNSの規則も、マイナーなローカルルールに過ぎないのであって、大義としての「公共性」を形成してはいない。かかる規則ないしルールとは「サービスの利用者に望まれる作法」でしかないのかも知れない。しかるに現状のWebにおいて最適解を求めて活動する以上は各々のローカルな規則に通じそれに準じるしかない。これは効率の問題である。かかる規則は繰り返されてきたトラブルの処理に際する合理性とコスト削減のために歴史的かつ段階的に、無数の人間の介在によって制定されてきた。「お上」を経由しないローカルルールとは常にそうしたものだ。任侠道のしきたりと共通するとまで言う気はないが。そして、しきたりをわきまえない若い衆というか厨房と童貞が増えて困る、という事態は現実にある。とはいえローカルルールの外部は存在し得るかというと難しいと私は考えるし、ルールへの無法が「構成員(というと言葉は悪いがルールに対して合意したうえで参加する者)」の顰蹙を買わないはずもない。現にそういった存在は2chにおいても顰蹙を買い無視&放置される。「空気嫁」という「抑圧」とは別の話。


たとえば、リスクヘッジを前提して棲み分けられた規則間の越権は原則として非難されるべきである。以前にも書いたが、炎上とは2chのローカルルールによるブロガーのローカルルールに対する越権行為であって。Disと揶揄は2chの挨拶であり、ROM専としての私はそうした2chを愛するが、そのことを知らないあるいは同意しないブロガーもいる。であるからトラブル回避としてのリスクヘッジとコスト削減という、ガバナンスの観点からの棲み分けが要請されるわけだが、つまるところこれは「いじめ」の問題とはあまり関係がない。悪意やあるいは差別感情の関与は事実であるが、悪意と差別感情の表出と流通がデフォルトであるWebにおいては、かかる問題は別個の観点から処理される。悪意や差別感情の噴出が「別個の観点」から処理されることを批判しあるいは抗議の意を込めて(ローカルルールの不協和音として)アクションを起こすことは自由であるし気持ちはわからなくもないのであるが、かかる非明文的なローカルルールの制定に関与した無数の人的なコミットメントとそれを要請した無数の不毛なトラブル、そういった試行錯誤への思いを馳せるべきではある。


そして、悪意や差別感情の噴出に対してあくまで人的な観点に基づいて処理しようとする態度が同意に基づき共有されることこそが、Webにコミットする者達の「民度」の水準を示している。これはあるいはWebユーザーに対して「構成員」たれと望む「選民思想」ないし「エリーティズム」であるのかも知れない。それを「選民的でなく平等」に、「工学的」にあるいは「強制力」をもって解決することは原理的には簡単なのだ。誰に対する呼びかけでもないのだが、Webにコミットする貴方が抱える「倫理観」はわかる。炎上も含めて、それってどうよ、と言いたくなるような事柄は多い。かかる事態を涼しい顔で看過する者達への憤りもわからぬではない。しかしながら。公共性の名のもとに求められる倫理を工学技術の導入によって実現することは、もっとも倫理からは遠い。工学的な規制の実施によって、倫理的な状態が実現されることは、倫理の敗北であるし、かくて公共性を志向するとは片腹痛い、とは思う。なお炎上自体を公的に肯定するWeb者など、少なくともブロゴスフィアにコミットする「内輪」にはいないと思うが。


ゲームの規則にコミットしている者はかかる規則をゲームの制度に過ぎないとは思わなくなり、現実的かつ公共的な最適解を無視し「現実」と「公共性」について取り違える。そうであるかも知れない。たかが球転がしと思ってプレイするサッカー選手はいない。金銭の非介在も含めて現実の社会的な文脈において直接的に機能してはいないのだから「選手」ではないだろう。そうではない。草サッカーであろうと真剣にプレイを楽しんでいれば、たかが球転がし、とは思わなくなるということだ。所詮遊びとしてのゲームである。かかるゲームが現実的な文脈における有害性を帰結していたとして、ではそうしたプレイヤーの心性を現実の社会的な文脈と公共性の観点から一概に否定し得るか。現に存在する工学的な環境が形成した巨大にして独自のローカルな世界観を、既成の「公共的」な「社会性」の文脈と接合させればそれで済むことなのであろうか。たとえば実名化によって。私はWebの一方向的な社会化に対してもまた棹差したい者ではある。


以下はあくまで事情に不案内な門外漢による勝手な感想である、と断る。オーマイニュースの現状における困難とは、現実の社会的な文脈に準拠した、旧来的でもある「公共性」概念を括弧付きのままWebにおける情報や見解の発信に際してそのまま敷衍し適合させようとしたことの不具合にこそあったと思う。それは「実名主義」に象徴されてはいる。Webにおける情報発信の倫理とは、現実社会における発言に際する倫理とはまったく異なる。発言者の個別的な身元確認とは、大量の発言が右から左へと氾濫して流れ続けるWebにおいては物理的に無理筋である、まして実名や所属など社会的な文脈にのみ限定して規定された身元の精査は無意味とは言わないが、コストの処理に多く結果が見合わない。ゆえに情報発信において要請される倫理意識もまた実際的な戦術も異なるし、発言者の人称的な個人性とは社会的な文脈に基づく「身元」によっては証されない。そして受信者に対して要請されるリテラシーとは、情報の内容的な検討にのみ準拠することの倫理の謂いである。すなわち、Webにおける情報発信および受信において実際的な見地から確立され得る「公共性」概念とは、現実社会におけるそれとは異なったものとなるであろう。それを読み切れていなかったのだろうか、とは部外者に過ぎない者としては思っているし、最初から無関心な部外者でしかなかったことも、その認識における「ズレ」に気が付いていたためであろう。


方針としての実名主義に別に異論はない、ただ実名であることが「責任ある発言」をWebにおいては必ずしも担保も意味もしないであろうと、当時から思ってはいた。事実どうであったかという以前に、私の価値的な判断に過ぎない。それこそ2chのROM者として、発言の内容自体について経験的に検討する癖の付いていた人間としては、Webにおける発言に際して「実名」ないし「所属」と「責任」とが等号にて結ばれる「社会的な文脈」に準拠した原理自体が、間違ってこそいないが、文脈の相違を踏まえてはいないな、と思っていた、ということである。そして、実際のところ、音羽氏も含めて記者氏の「実名性」自体についてWebにおいては多くの人はこだわってはいない。実名よりハンドルの方がいまだに流通していることへの違和感を音羽氏が記事にて表明しているが、別にみなその件に関してはからかっているとも言えない。失礼ながら「現実の社会的な文脈における無名人(有名人ではないということに過ぎない)」の実名もまたハンドルと同様に単なる人称識別の記号としてのみ流通するのがWebの特性である。実名が個人の個人性を証すわけではない。それは発言と行為によってしか証されない。たとえば私が今実名を公開したところで、その漢字の羅列が「sk-44」以上の意味を多く持つわけではない。人称識別の記号でしかない。なら実名にしろと言われてもしないのは、Webにおける言動の、現実の社会的な自己に対するフィードバックを能う限り遮断するためであることは事実である。


そして、かかる要請が現状においてWebユーザーの大半に存在する以上、Webにおける「発言ないし情報発信における責任」という概念が現実社会における文脈とは別個の形で構成されることは必然の結果である。リテラシーという「倫理」はそこから生まれる。そこに「発言ないし情報発信における責任」を「実名」という「社会的な身元の確定」にのみ接続させる価値観を鳥越氏言うところの「挑戦的」にぶつけてきたところで、反動とは言わないが、価値的な軋轢以前にそれこそ現実的に無理筋であろう、とは思う。確かに、実名と社会的な所属を晒して差別発言をする人間はあまりいません。しかしそれは「責任ある発言」という倫理の手前にある単なる社会的な首縄に過ぎません。リスクヘッジないしリスクコントロールとしてのプラグマティズムの一方的な実施は、倫理とは関係がありません。


社会的な首縄の及び得ない世界における社会性と倫理と公共概念、それをこそみな模索して個別的に悪戦苦闘し試行錯誤しているのであって、かかる下部的な知恵の絞り合いを一切スキップないし捨象して「社会的な首縄」を発言者に対して装着させればWebにおける社会性と倫理と公共概念が実現され健全に保たれ得る、というのは筋が違うどころか無茶な発想としか当事者としては言えない。「社会的な首縄」の不在を前提することこそが、Webにおける倫理を考える際の要諦であろうと、私は考えるのだが。明確な違法行為に関しては多く発信源の特定は可能である。たとえばであるが、炎上の対策として社会的な首縄の全員装着を求めるというのは、蝿を散弾銃で撃ちまくるような過剰な対応です。しかも弾は多く蝿に当たらず盲滅法な方向へ。


読み返す。複数の方の発言や見解に対する感想が混淆している。書き落とした事柄と書き過ぎた事柄が幾らもある気がする。後で修正するかも知れないとはまたしても記しておく。とまれ、佐々木氏への批判記事の方も含めて、内容自体にのみ準拠したならば、それほどに悪い記事ではないと思う。問題意識自体が直球で投げ出されているからであろうか。自らの言葉で記しているからでもある(この記事に関しては、アドルノとホルクハイマーへの言及に関しても、必ずしも権威依存的な言葉遊びであるとは思わない)。であるからリンクした。佐々木氏批判のエントリも含めれば、ブクマコメントにおいてそうした反応がいくつか存在することは、はてな村とやらの健全性を示す兆候であるとは思う。批判の余地の所在について延々と記したうえで私はそう言っている。ひとつの好意的な声の背後には100倍するそれが、声なき反応として存在する。むろん逆もまた真なりであるが。


なお「自己吐露は記事ではない、チラシの裏に書け」というような立場は当然あり得るだろうが私は採らない。以前にも記したが原則として私は「チラ裏」という批判のスタンスはWebにおけるパブリクションについては自らにも他に対しても取らない。本当に無意味な「チラ裏」であれば無反応のまま終わる。無反応を結果する無意味をそれを理由に終了宣告する気も筋合いもない。かつ前記の通り「団体としてのオーマイニュースが志向するとされている公式的な姿勢」すなわちごく簡単に要約的に言って、現実における社会的な文脈を前提するいわゆる既成の「ジャーナリズム」概念のWebにおける敷衍適用という方針を支持しかねるので。氏が個人的な問題意識の表出媒体をブログではなくオーマイニュースに求めている、その理由も(わかり難くはあるが)表明している以上は、私はかかる価値観に対しても同意しかねるが、気持ちはわからないでもない、御自由に、健闘を祈る、ということです。私個人は一匹である人は関わり合う気はなくとも嫌いではなかったりする。一匹の人がそうあるのは多く自業のゆえであると、我が身を省みてもいささか思うが、自らの業とは意思であると、強弁することも可能では、ある。強気と高慢はイコールではないし、矜持を無礼と無法によって示すことは、到底エレガントとは言えないけれども。――〆