男の語録メモ2


今年も開催されたGEISAI。→http://www.geisai.net/about/


参加者達にあるいは嫌がられるであろう表現を用いると、端的に言って、アートのコミケのようなイベントです。コミケが同人の祭典ならGEISAIはアート同人の祭典。有明の国際展示場が会場であるし。アートの文学フリマのようなイベントと言っても構いませんが。規模的にはコミケ文学フリマの中間。ただし、一般参加者に対する審査員による選考と画廊によるスカウトがある、というか振興を前提としてそちらがメインディッシュである点が異なる。


さてその仕掛け人(チェアマン)たる村上隆が会場を回って審査する風景が、何年か前の(村上がルイ・ヴィトンと提携して話題になるより以前の)TVドキュメンタリーにて放送されていた。ブースを出して作品を展示する一般参加者たちに次々と気さくにフランクに話しかける村上。審査の一環でもある以上、「あの」村上に自作品について訊かれ緊張しながらも受け答える出品者達。むろんほとんどが若い人。さて、会場を早足で巡回しながら村上が背後のTVクルーにボソッと語った言葉が忘れ難い。


「話しかけて、受け答えや挨拶がちゃんとできない子は作品がどんなに良くても絶対に選ばない。挨拶や礼儀のちゃんとできない子はアートでも絶対に大成しない」


(記憶に基づいて記しているため厳密には精確な言葉でないが、大意に齟齬はない。「挨拶がちゃんとできない子は作品が良くても絶対に選ばない」とは間違いなく言っていたと記憶する。)


審査基準の斬新さというか意外さに眼から鱗が落ちた。必ずしも作品にのみ準拠しない、と。少なくともTVクルーに向かって公言する姿勢は斬新であった。「アート」に憧れるだけの門外漢の若造にその発想はなかった。むろん村上以外の(毎年入れ代わる)審査員ら関係者の審査基準はまた別であろう。アートのそしてアート業界の擦れっからしたる村上の、というかヒロポンファクトリー(いまやカイカイキキであるが)の土性骨としてのイズムとそれが示す一抹以上の真理に、感銘を受けたものであった。


「挨拶がちゃんとできない子」が多くアートを志向しアートによって生きていく、いや生かされていくのであると、その一員でもかつてあった私はなぜだろう、すがるように考えてもいたので。「挨拶がちゃんとできない子」がアートを志向することは自由であるが、アートによって生きていくことは甚だ困難である、いわんや生かされていくなどというのは不当要求である、という至極当然の世の常を村上の呟きによって啓示されたのであった。むろん、ここで言われる挨拶云々とは、端的に社会性を指す。なお付記しておくが、上記は何年も以前の発言であり、現在の村上がどう考えているかは私は知らない。