蝶々と戦車


ようやっと帰宅、人心地付いた。眠い。日曜の夕刻に目覚めてから寝ていない。タワゴトエントリ書いたり他人様のブログに長文コメントしている暇があったら仮眠しろ、という話ではあるなと、朦朧の頭で思っている。で、あるので、記そうと思っていた事柄については明日の日付に回す。


E・ヘミングウェイの後期の短編に『蝶々と戦車』という名品がある。筋。作家の分身たる主人公が戦闘の渦中にある街の酒場で飲んでいる。スペイン内戦。戦火のマドリードのバー『チコーテ』。漂う紫煙。響き渡る歌声。戦争の合間に一時の憩いを求めて語らう制服姿の軍人達。男臭いにぎやかな談笑が響く。彼らの腰に差してある拳銃。突然、酔った正装の男が酒場の戸をあけて闖入。陽気に前後不覚な男はふらふらと店内を漂いながら、手にしていたおもちゃの水鉄砲でウェイターを至近距離から撃つ。チョッキに水がかかる。ウェイターは制止を求める。続けて発射。別のウェイターの服が濡れる。刹那、店の軍服連が男に殺到、無言で砂にされた男は店外へと叩き出される。再び酒杯を手に取り、なごやかに酌み交わそうとする制服。血まみれの男が再び酒場の戸を開ける。正装は破れ雑巾、血だらけの顔に陽気な笑みを浮かべ、入口から店内に向かって水鉄砲を放つ。倍する軍服が殺到。無言の内に銃声が響く。男は死んでいる。店中の制服が総立ちになって銃を抜き、怒号が飛び交う。誰も店から出るんじゃあない。作家は、この期に及んで人道的な信念を貫こうとする(「彼を助けなきゃ」「もう死んでるよ」)女性ジャーナリストを黙らせて共にカウンターの隅に身を伏せる。駆け付ける警官。翌日。通常営業の同じ酒場『チコーテ』で作家は支配人から聞く。あの男は結婚式の帰りで、酔って舞い上がっていた。酒場の皆を楽しませようと趣向を打ったんですよ。水鉄砲、中に詰めてあったのはオー・デ・コロン。彼の妻が警察に直訴しておりますが、誰が撃ったかなんて警察が調べると思いますか。またあの場にいた誰が証言しますか。つまりは、蝶々と戦車がぶつかったようなものですよ。この内戦の街で。ぶつかったなら、蝶々は戦車に轢き殺されるものです。しかし誠に、蝶々とは陽気で綺麗なものですなあ。


空気嫁、という教訓譚ではない。為念。終生癒えることなき傷を戦争にて負った文豪が記した詩とは、戦車に対する蝶々の無力と無惨と、そのゆえにこそ陽気で綺麗でありながら、滑稽で無様な蝶々の羽ばたきの交錯である。かかる昏い体験的な認識を前提して、パリのキー・ウェストのキューバのパパの文学は記された。彼は戦車という絶対値の存在を知り、その前における蝶々の無力と無惨と無様と滑稽を知っていた。知った大半のリアリストと呼ばれる人は戦車の世界に生きて、結果的には無意味な蝶々を轢き殺す。ノープロブレム。だがヘミングウェイは、戦車という絶対値と対峙しないしは齟齬を刻む、陽気で綺麗な蝶々の崇高をこそ、模索した。無意味に殺される男の愚かで痛く小粋な振る舞いの、シリアスな戦場の死生との齟齬という滑稽を通じて描いた。戦車という絶対値の存在を認識し、かつ昆虫でしかない蝶々の崇高を非崇高的に示すこと。尊厳を非尊厳的に記すこと。それは、ジャンルではないハードボイルドという新規の文学を規定していた、倫理であった。


蝶々と戦車・何を見ても何かを思いだす: ヘミングウェイ全短編〈3〉 (新潮文庫)

蝶々と戦車・何を見ても何かを思いだす: ヘミングウェイ全短編〈3〉 (新潮文庫)