ある釣り師の伝説


http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/29130/


痛いニュース(ノ∀`) : 【コラム】 イジメで自殺するくらいなら復讐せよ 死ぬべきは加害者、少年法が君たちを守る - ライブドアブログ


呉智英夫子を全力で擁護する、までもないのだが。おそろしく大量のブクマコメントなど眺めるに、Webにおける(少なくとも発言にアクティブな人達の)リテラシーは、本件に関しては信頼に値すると思う。


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呉智英夫子について幾度かエントリにて言及してきた者として、言わずもがなの屋上屋を書き連ねますと、夫子は筋金入りの真正の釣り師であります。「釣り」という言葉と概念が生まれるそのずっと以前から。確信犯的な釣り師であり続けることこそが、自らのような「言論界の色物」たる非専門的かつ啓蒙的な御座敷知識人の役割であり使命であると信じる御方です。本件は特にそうなのですが、反響としての効果にのみ射程を据えた釣りを意図しての言論なので、マジレスしたところで乙としかならない。マジレスの内には「真に受けて加害者を殺してしまう」も含まれる。むろん小谷野先生のレスは、了解したうえでの冗談です。自己の言論の現実的な文脈における責任を取らないという無責任性こそが知識人という操孤者の倫理であると信じる古き文士気質の方なので。


ただし、補足しますが夫子が確信犯としての釣り師たらんと決意し実行したその背景には、言論の無力に対する切実な危機感があり、Webなき時代における「釣ること」自体の困難があった。更に当然のことを補足するなら、釣りの生産的効果(=過激な形で議論を喚起する)を古典的な「知識人」として求めた夫子はむろん、釣りに終わることなき見識に基づいて「極論」を構築したし、確信犯呉智英の釣りは彼の見識と才筆に裏打ちされていた。さもなくば釣り師商売などなどたちどころに干され駆逐された。真正の釣り師であり古典的な「知識人」たる所以である。「知識人」とは釣り師たるべしと有言して実行した人であり、かかる知識人観こそが甚だ古典的なのです。


さて、かかる夫子をよく知る者としては件のコラムについて、ブクマのタグのように「これはすごい」とはまったく思わない、単なる既知でしかない。公器に載ったことは別として。呉先生、昔からこういうことをこういうタイミングで繰り返し言い続けてきたから。で、媒体が公器で紙面の分量的制限もあるためか、夫子の見識もまた最小限しか開陳されてはいない、むしろ物足りなくもあり夫子のコラムとしても出来のよい部類のものではない。このタイムリーな時期に公器で言い切ってみせる点こそが、真正の釣り師の面目躍如というところではあるが。


Webに掲載されて瞬く間に相反響するメカニズムの介在は、言論の状況を変えた。夫子の変則的な言論戦法もまた「釣り」として廉価普及した現在、いまこそ夫子の活躍する好機だ!というわけにもいかずマイコンすら持っていない夫子はいまだに手書き原稿なのであった。昔気質の文人ですから。多くの心の弟子達(不肖の弟子も)がWebにてアクティブに活動している以上、私個人は一向構わない。淋しくはあるが。そもそも夫子が、たとえば弟子に代筆させて自ブログを持ったとして、昔気質の文人の言論と才筆は、現在のWebにて直接的に必要とされてはいまい。


要請されるアクチュアルかつジャーナリスティックな言説としての文章は、記述形態において変容を余儀なくされている。変容以前の古き文人の才筆、その消印を私はたとえば唐沢俊一のWebにおける文章に見出す。そこには文化の断絶がある。私以降の世代において、決定的な分岐が介在するであろう。多く本格古書に触れることなき彼らは唐沢氏の(かつての)日記をいかなる文章として受け取るのか。別に否もない。私もいまやWebで読む文章のほうが圧倒的に多く、こうしてWebで文を綴っている。そうした誰も逃れ得ない現実と、現実の影響を被った記述文化の変容の話だ。


犬儒派だもの』が文庫化された。近年の呉智英夫子は、いっそう文人気質を強めて、教養と人品骨柄に裏打ちされた至芸のエッセイを記す一方で、本件が典型ではあるが、言説家としては時折あざといまでに釣りを意図した言辞を用いるようになった。明快で刺激的ではあるのだが、あまりに射程の露骨な「あえてする極論」に違和を感じるときがあるのも、また事実ではある。「極論」は、かつて呉が巧妙に描いた絵の通りには機能しなくなった。それは「あえてする極論」の無効化を意味する。端的に言って、夫子の釣りは失敗しているのだ、彼の意図に依拠したなら。モラリスト呉智英の故意の逆説は、逆説として機能しなくなった。とはいえモラリスト呉智英そして文章家呉智英を、私が敬していることに変わりはない。ただ逆説家呉智英は、歴史的な役割を終えたのかもしれない。ブクマコメントにおいても多く引用されている当該コラムの結語。

いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから。


これこそ呉智英が本領を発揮した、彼一流の挑発的な逆説。しかるに、かかる批評の致命的な無効を示しているのが、ドラスティックかつ即物的な現実の状況である。批評的な逆説は「非現実的なインテリの空論」として帰結する。「非現実的なインテリの空論」をあえて吐き続ける挑発が呉智英の一貫した言論活動であったから、彼は動じはしまい。ただ、では現在の彼は現実の変容を精確に勘定に入れているのであろうか。逆説を受容する文脈の決定的な変容と失効(それをリテラシーの低下と呼ぶ)を踏まえて、今なお彼は現実的には無害な逆説を吐いているのか。釣りの失効もまた「所詮、現実に対しては無力な知識人」にとっては既知なのだろうか。今なお「挑発する文人」たらんとするペシミストの彼は。


米沢嘉博氏の葬儀の日、斎場で夫子の姿を初めて直接目にした。痩せた鳥のような喪服姿の、山高帽を被った白髭の澄んだ眼の老紳士。友を送りし後、背筋を伸ばし昂然と正面を見つめていた。今年還暦。


犬儒派だもの (双葉文庫)

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追記。ところで呉夫子は老獪である。当該コラムを改めて読み返したところ。

イジメに苦しむ少年少女よ、


と呼びかけたうえで、

唯一最良のイジメ対処法は報復に決まっているではないか。


と冒頭から断定的に記した後に、

『いじめレポート』(集英社)にこんな声がある。「徹底的に体を鍛えた。復讐(ふくしゅう)のために…。やられる前にやれ!」(A男)。A君は拳法、柔道で「歩く凶器」となり、イジメを粉砕した。睡眠薬自殺未遂のC子さんは、死を思う気持ちよりも「憎しみの方が強くなった」「私もガンガン殴り返す」「女でもやるときはやるんだ!」。別の女児もこう言う。「どうしても死ぬっていうんなら、いじめた奴に復讐してからにしなよ」


と「十一年前」の「当事者の声」を補足なきまま複数引用して紹介することにのみ努めた後で(むろん紹介した「声」の抽出と引用部の抜粋は呉の恣意に拠る。なおこの「声の紹介」としての引用部分が短いコラム全体の分量的にはおよそ半分近くを占める)、

復讐は道徳的には正しいのだ。現に、ロシヤに抑圧され続けたチェチェン人は果敢に復讐をしているではないか。


と畳み掛けてチェチェンの例まで引っ張り出したうえで言い切って、結語。

被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれるから。


さて、個別的な文面のうえでは「加害者を殺せ」とは呉先生は1文字も書いていない。しかるに、段落を追って読了したときに、コラム全体の文脈が何を意味し指し示しているか、すなわちコラムの文意が結果的に構成しているメッセージが何であるか、明白である。「イジメ対処法は報復に決まっている」と断言しチェチェンの例まで持ち出して「復讐は道徳的には正しい」とは言い切るが「報復」「復讐」の具体的な中身については語らない。「やられる前にやれ!」「ガンガン殴り返す」と言っているのは呉ではない、『いじめレポート』内における「A男」であり「C子さん」である。「死ぬべきは加害者」と一般論的な形でしか表明しない。そして「復讐せよ。死刑にはならないぞ。少年法が君たちを守ってくれる」とだけ最後に記す。明確な「違法行為の教唆」としては成立しないが……まぁリテラルに明記された犯罪教唆など新聞に載せられるはずもないのであった。才筆、だ。


おまけ。呉智英 - YouTube