B・Jに宜しく


http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/psyqa1087.html


http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/856114.html


いやこれガチですから。何がって林先生の回答が。ブクマコメントちょっと見てみた。


はてなブックマーク - 【1087】家の中にストーカーがいます


傍目から窺えばホラーにしか見えないだろうし、実際、当事者性を解除して眺めてしまえば上記にリンクした2ch編集ブログにおいて複数抽出されているようなQ&Aは、まったくのホラー&コメディでしかなかろうが。しかし。私は医療の専門家ではむろんないから、経験的な一般論としてしか話せない。だからこういう場合に「妄想」という言葉を軽々しく使いたくもない。人生の行きがかりから、統合失調症を患った人達を何人も見てきたし楽しく座談も交わしたし一時的といえ親密になったこともあるし絡まれたことも喧嘩したこともあるし、自分のケースでもまた他人のケースでも、色恋沙汰が幾つかありました。マジで。


だから『ブラックジャックによろしく』の精神科編などを読むと、感慨は複雑である。別にことさら異議があるわけではない。誠実な仕事と思う。ただ私の体験的な記憶といくらかリンクし共振する、ということだ。是と非がそこから導き出されてしまうことは仕方がない。


ある種の非現実的な思い込みに拘束されてしまっている人に対して、その非現実性を指摘することによって自身の失調と故障を自覚させることは、思い込みの昂進を食い止めるひとつの手段ではある。その昂進が悲劇を招来しかねない蓋然性が現実的に存在する以上。これは統合失調症に限ったことでない。ただ、現実には林先生が言う通りの状況が存在する。発病初期には多く自覚に至らないのだ。医療が要請されなければならないにもかかわらず。


http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/schizo0.html

本人はその症状が病気とはなかなか理解できない。これが典型的な統合失調症の発病です。治療しなければまず間違いなく悪化していきます。


私が巡回しているブログの管理人氏によるものでもあり、批判とかではまったくないと断っておく。ただ、当該記事に対して同様の感想を抱いている人が多いだろうと感じたので。ブクマコメントでの指摘に、

yuki_19762 たとえ相談者の方がほんとうに統合失調症だったのだとしても、ウェブでの回答でそれをはっきり指摘するのはアリなんだろうか。確証ないんだろうに。あったとしてもそりゃまずいんじゃねぇの。


というのがあった。至極当然の指摘ではあるが、これはそもそもメールでの相談に対してWeb上で答える、という形態自体が、なんというか、こうした場合は無茶なのです。文意と文面から判断するしかない。言わずもがな、この種の「診断」は面談が前提だから。当該の林先生のサイトには、


http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/QANote.html

事実を回答することを基本方針としております。したがってこれは医療相談ではありません。

「事実を伝えることが基本方針」というのは、当然のことのようですが、実は重大なことです。通常は、医師から患者さんへの説明は事実とは限りません。患者さんを不安にするのを避けるため、事実にベールをかけることはしばしばあることです。

しばしば「助けてください」と書き添えられたメールを頂きます。そのお気持ちは理解できることが多いのですが、回答はあくまで事実を伝えるものであり、助けることを第一目的とはしていないことを十分ご理解のうえご質問ください。

したがって、私のサイトの精神科Q&Aは、いわゆる医療相談とは根本的に異なる性質のものです。「これは医療相談ではありません」というのはその意味です。

個人情報的な部分は納得のいかれるまで何回でも直しますが、症状の描写に関する部分は直すことはできかねる場合もあります。

すでに医師にかかっていて、私の回答と主治医の見解が矛盾する場合、迷わず主治医の見解を信用してください。メールからの判断には相当な限界があります。

(上の[1]から[8]とそこからのリンクをよくお読みになり、十分納得されたうえでメールをお書きください)。


といった詳細かつ厳重な断り書きがある。相談のメールの文面のみで「統合失調症」と「診断」を下す行為は素人目にも確かにまずい。しかし、当該の記事に限定するならばそれはちょっと違う。林先生による回答の末尾を長めに引用して参照すると。

しかし、どうもこのメールの内容は解せないところがあります。

(中略)

まさかとは思いますが、この「弟」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。もしそうだとすれば、あなた自身が統合失調症であることにほぼ間違いないと思います。
 あるいは、「弟」は実在して、しかしここに書かれているような異常な行動は全く取っておらず、すべてはあなたの妄想という可能性も読み取れます。この場合も、あなた自身が統合失調症であることにほぼ間違いないということになります。


いや、それは全くの的外れかもしれませんが、可能性として指摘させていただきました。メールの文章だけしか情報がない精神科Q&Aの、これは限界とお考えください。


私自身の所見の蓄積から導き出される一般的な解を貴方の文面に対して演繹的に適用した場合、仮定Aであったならば、あるいは仮定Bであったならば「統合失調症であることにほぼ間違いないと思います。」という(決して「診断」ではなく)「判断」の直後に、

いや、それは全くの的外れかもしれませんが、可能性として指摘させていただきました。メールの文章だけしか情報がない精神科Q&Aの、これは限界とお考えください。


という保留が付記される。そして、林先生が認識している通り「メールの文章だけしか情報がない精神科Q&Aの、これは限界」ではまったくあるのだ。上記のケースからは外れて、上の2ch編集ブログにて複数抽出されているようなホラーでコメディなQ&Aに関して言うと、その他の情報が一切ないきわめて限定的な状況下においてメールの文面自体から判断するに、相談者の貴方が拘泥されている事柄は非現実的な思い込みであり、貴方の相談されている内容は少なくとも非現実的ではあります、という文面から最低限汲み取り得る「事実」を専門家の立場から「指摘」することは、一概に是非を判断できるものではない。たとえそれがかかる文面を綴る相談者自身のためにはならず、思い込みのさらなる昂進を食い止め得なかったとしても。


私も当該サイトをだいぶん以前に眺めたきりで、今回の2ch編集ブログで改めて思い出したため、1,000に及ぶ問答をなお更新し続ける林氏の真意については不案内だ。しかし当然想定される複数のリスクを考慮したうえで、かかる応答を続ける意義を林氏が認める、その背景について私個人の体験からは、ある程度は察し得る。誤解を招くに決まっているし当て推量でしかないため書かないが。


以上、きわめてデリケートな問題であって、私は専門家でも統合失調症の発症経験者でもない、余計なことを言うべきでもない、だから話をズラす。以下は統合失調症という固有の機能疾患の話ではまったくない。あくまで私個人による大雑把な一般論でありかつ蛇足に過ぎない。はっきりとお断りしておく。


なお、上記の参考としてインフォ。ベタだが。


統合失調症 - Wikipedia


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健常な自己を前提として、自らの失調や故障を認めたがらない人は多い。ましてそれが心の故障や失調であったならなおのこと。10代で心の故障を「診断」されてしまった子供が背負う心理的な負債は大きい。では20代や30代や40代ならかかる「事実」の受容に対する抵抗感は小さいか、多く否。


社会的存在としての人間にとって、健常であったはずの自己の心の故障を「診断」されてしまうことは、社会的な脱落者にして失格者であることを意味し、人間が社会的存在であるということを信じる以上それはすなわち人間失格であることを帰結して、自己の存在自体における大きな「負い目」となってしまう。むろん現代日本の子供が社会的存在でないはずがない。学校や友人関係という子供の(似非)社会は多く現実の社会よりも小さく狭くのりしろ少なく排他的かつ抑圧的である。


だから別に最近流行のネオリベとかは関係ないし「同調圧力」という印籠を持ち出せば終わる話なのかもしれないが、社会と共同体が癒着してしまっていれば、共同体からの脱落者は共同体の内部においてのみ「処理」される。彼や彼女の尊厳は、すなわち社会的な存在としての人間でありうる可能性は、共同体的な所属性をのみ容認する者達によって無意識であれ遺棄される。


任意の共同体からの脱落者を包摂するのりしろを残す、すなわち個人主義を前提としたうえで、あるグループから脱落した人間を受け止め得る別個の異質なグループという、複数の価値的な集団を緩やかにプールした形で包摂し、なおかつ任意の複数のグループへの接続と切断を個人の意思によって調整し得る。かかる選択肢を調達する機能こそが、都市社会の可能性であったはずだ。むろんそれはあるいは階層化と人間のゾーニングをもまた促進するが。社会的な存在となることによって自らの尊厳を調達しようとする人間とは、孤絶を本質的には求めぬ関係性の動物でしかない、ということかも知れない。それが言語的存在ということか。


私が考えるのは、これは心身いずれの場合であれ、自己の身体的な故障や失調を自覚することが当人にとって決定的な負い目となってしまう意識のあり方と、かかる意識を涵養してしまう社会のことだ。たとえば心の失調に対して下された「診断」を、クリニックの門を叩いた「患者」は多く最初は受け入れようとしない。差別用語指定がいまだに存在するということは、言葉が示す存在への蔑視がいまだにあると公式に認めているということである。


だから、まず「診断」とそれに基づいた自身の失調を受け入れさせなければならない。受け入れさせるとはどういうことか、負い目を解除させるということだ。そしてそれは現在でもなお、困難な作業である。だからたとえば「心の風邪」という表現を用いて啓蒙しなくてはならない。その点で、私はかつての藤臣柊子には恩義がある。


自身の「病名」を振り回して人間関係における不始末を正当化する人間は好きでない、と、それは私も知る知人のことではあったが一般論として述べた友人がいた。彼の健康な感情はわかる。わかるのだがしかし、心身にハンディを抱える人間が自己の「病名」や「障碍」を自ら受容するに至る過程における困難と葛藤とは、診断結果としての「病名」や「障碍」というカテゴライズを解除した限りにおいては、誰もが自己の来歴への対処と決済として直面する課題でもある。人生とは個別的な困難と葛藤の受容に至る過程である、その終了の時までずっと。かかる困難と葛藤の受容が、あるいは受容の否認こそが、快活さの喪失と屈折や偏向の形成を結果してしまっていたとしても、そのことに何よりもリグレット(慙愧の念)を覚えているのは、多く当人なのだから。それこそ自己憐憫だと言ってしまえば、体験的にそれを即座に否定することもできない私としては、何も言うことはない。むろん私もまた、甚だ人格偏頗な人間だ。


しかし繰り返すが以上は誰にも該当する事態だ。「病名」や「障碍」というカテゴリーにのみ弊を帰着させて他人をなじれる話ではない、双方ともに。リグレットは誰もが背負う、だから自らのリグレットを大仰に言挙げする行為は自己憐憫だ、と確かに言えるかもしれない。しかるに、制度の問題とはまったく別個の、対面的な関係性に限っての私見に過ぎない、と断ってから記すが、我が身を省みて言えば、リグレットほど旨い酒が呑めるネタはない。独りで呑むのも他人と分かち合って酌み交わすのも。リグレットの杯を換え難き誰かと密に交わす営みを、ときには愛と呼んだりもする。酔人に紳士の態度をもって応対する振る舞いこそが文化的人間の品性というものであり、酔人を真っ先に包摂するのが文化的国家の度量と成熟というものです。


私も身体機能における(些細ではあるが)故障や失調をいくつか抱えてはいる。我が生のデフォルトなのでどうということはない。はるか以前に勤めてすぐに辞めた会社の直属の上司が活舌はともかくえらく声の小さな人でしかもどう見ても昔ヤンチャしてましたという御方で、声が聞き取れない新米の私が幾度も聞き返していたため、お前は俺の話を聞く気がないのかゴルァと散々絞られた。良い人ではあったから、少なくとも私の側に聞く気はあったつもりなのです。ゆえに、自分は社会人失格なのだ、とハタチそこそこの青年は日々負い目で一杯であった。その頃は気付かなかった。些細な故障でしかない、別に「障碍」ではないしむろん仕事の場であったから怒られて仕方がない。ワンマンな有限会社でもあったし、実際私はいまだにどこか反応がおかしいらしい。当時の上司が苛つくのも当然ではある。ところで私は友人に対してはしょっちゅう聞き返す。話を聞かない癖があるのもまた事実だな、と自ら笑う。本人に責のない軽度の故障に負い目を感じるよりは、故障を知ったうえで淡々と快活に生きるべきではあろう、というのが私が自ら出した結論であった。――〆