不能をめぐる性の戦争

 前項「食の悲しみ」について。昨日書ききれなかった点について追記。
 というか、人は逆説とアイロニーを理解しないと、宮台真司も九官鳥のように愚痴っているので、野暮の一押しを。
 (後記。話題が脱線しまとまりませんでした。本題は明日か、またの機会に)


 1.「性」について。

 かつてアフォリズムの名手、山田詠美が言った。
 「SEXを知らない人間は野蛮だ」と。
 言いたいことはわかる。彼女が前提とする価値観も知っている。
 それがフェリーニが「サテュリコン」で描いたような、古代ローマ的な快楽主義でないことも、また吉行淳之介的な、性こそが人間性(=の闇)を表象する、といった最悪のエッセンシャリズムでないことも、了解している。アフォリズムとしても上手い。
 だが……


 彼女が言っていることは、そして山田作品の一貫した問題系とは、他者との関係性における人間の成熟という課題、それにつきるのである。


 そもそも上記した「サテュリコン」解釈も吉行解釈も、単なるどうしようもない俗説だ。


 後期フェリーニの主題は一貫して「ヨーロッパ」だ、とかつて橋本治は言ったが、事実「甘い生活」以降のフェリーニは、ただひたすら、大戦後の西欧人が蝕まれた孤独と強迫神経症と、その症候が引き起こす不毛で退屈な宴と、その舞台装置の終わりなき遅延を、手を変え品を変え、表現主義的なまでに極大化して表象し続けた。「サテュリコン」もまた、その表象のどぎついワンピース。


 彼らが性の饗宴に耽溺するのは、極めて西欧的な、あるいはカトリシズム的な、過剰な強迫観念に駆られているからにほかならない。大戦後と古代ローマ、ともに神の不在の中で、「健康的」な身体に蝕まれた彼らは、キリストの訪れを待ち続けて、一点にたたずみ続ける……


 神が私たちの頭上を偶然訪れ、通り過ぎていった2000年間。そこに西欧の、すなわち人類の精神史と叡智の精華が結晶する。そして神の過ぎ去りし後、私達はあたかも2000年前の「ニヒリスト」にして「実存家」達のように、再び神の到来を孤独に待ち望んで、頭を垂れて日常という終わりなき祝祭と戯れを演じ、虚しいながらも楽しく反復していく……


 まるでベケットの「ゴドーを待ちながら」だが、それこそがポストモダンまでに至る、大戦後のヨーロッパの思想的課題であり、フェリーニが描き続けた「終焉のあと」の人間の不毛なサバイバルと、その悲劇でも喜劇ですらもない実相なのである。


 フェリーニが映画的な物語解体の先駆者であったのは、以上の記述と直結する。
 もはや我々に立体的な「ドラマ」も「全体」もなく、ただ平面的な反復の中で、部分が離合集散と差異化を繰り返すのみである。本土決戦と終焉のあとで、いかなる悲劇や喜劇が構成できようか、いかなる生成と崩壊が起こり得ようか……!



 …………………


 これに比べれば、あるいは日本という「悪い場所」の風土的独自性ゆえか、吉行淳之介は徹底性が足りないが、しかし彼にとってもまた「性」とは決して人間の本質などではなく、不毛性に支配された(大戦後の)人間の、その不毛の特異点として、いわば「サイファ」として表象された形象なのだ。
 そしてそこには川端康成のように生と死が露出し、生ではなく死のネガとして「性」がある。


 川端は静的なる「女体」という「死物」に「性」を「鑑賞」したが、吉行は動態としての「女」に「性」を「観察」している。しかしその「性」とは死のネガである。
 吉行は決して、たとえば高見順のように「生命」の象徴として、つまりはエロスとして女を見ることをしなかった。良し悪しは別として。むろん渡辺淳一とも違う。
 おそらく、吉行にとって女とは、不可能性と不毛の象徴だったのだ。


 彼の作品を読むと、その延々と持続する不毛感の中で、不毛を打破する「生命」(=ヴィーナス)としてではなく、不毛の極限を体現する存在(=つまり虚無の表象・アイドル)として、女が性がある。
 だからむろん、女の人格的個別性などどうでもよく、どれを読んでも見分けが付かない。人間と思ってないんだから。不可能性と不毛を=つまりは己の虚無を、より鮮明に映し出す鏡として、自分の前に裸で立っていればいい。
 つまり一種の対自存在。サルトル的な。


 テクハラだって?むろんその通り。


 しかしこれは、あるいは西欧人と同じ「大戦後の課題」を、本邦の「文学者」もまた感受していたという、ひとつの証明にはなる。まあ仮説ですが。


 実際の私生活においてはむろん違ったのだろうが=だから私は吉行作品を「不能の小説」と思っている。それはもちろん、性的不能のことでもある。ダブルミーニング。 


 要するにまとめれば、フェリーニも吉行も、その主題は「快楽」ではなく「享楽」なのである。フロイトの図式で言えば、エロスではなくタナトス。さらにいえば勃起ではなく不能。このインポテンスに、大戦後の我々はいかに耐え抜くか……!


 我々の戦後60年とは不能の60年であって、そして今なお我々はEDであり、よってラカンの言う通り、去勢の必要など、ない。これは高度資本社会における全世界的兆候である。
 唯一鼻息荒いのが、まあ合衆国なのだが、彼らには早晩断念を叩き込んで、宦官の屈辱と誇りを学ばせる教育化が必要では、ある。


 ちなみにこの不能に対するカンフル剤、否、バイアグラこそが、近年我が国含め先進各国で興隆のナショナリズムである。「オヤジ」が飛びつくわけだ。
 保田與重郎のように、不能を耐え忍ぶ姿勢にこそ学べ、そこにこそ美学と哲学が宿る、という真正保守の御説は正しい。旧帝国の美学とは、あたかも(ハプスブルグ帝国に生まれ育った)ムージルブロッホ的な、不能者の美学である。


 そしてあるいはもうひとつのバイアグラが、言説としてのクィアスタディーズに散見されるような、ポジティブな快楽主義である。
 「性的人間」を「あえて」楽観主義的に肯定する一種の性礼賛主義は、HIVとその偏見の猛威のあとも、メディアにおいては語られ続けている。つまり啓蒙は続いている。
 是非はさておくが、しかしいまやヘテロこそが「享楽」を綴り、「享楽」的と「俗情」によってみなされているクィアの側が「快楽」をことさらに言挙げるのは、おそらく「自発的な恣意の強制」すなわち「内心の強制」「無意識の虚偽」が起動しているからだろう。


 むろん、SEXどころか「恋愛自由主義社会」において、性の選択肢があるいは性行為の選択肢が、ひいてはコミュニケーションと身体的快楽の選択肢が広がることは、「快楽=エロス」の蓋然性を高め得て、それはそれでまことに結構なことだ。
 しかしそれは状況の実相において、現実的に「享楽=タナトス」の蓋然性が高まったことへの、ニーチェ的な「強度」を掲げる、まさしく「迫害される『強者』」達の必然的な対抗と闘争の装置であろう。


 変態のほうがより充実した生を生き得るなどと、価値転倒の目的があろうと吹いてはいけません。それではヘテロと変態の、正統と異端の、ただのヘゲモニー争いになってしまいます。


 ついでに言えば、山田詠美の性愛観は、コンサバティブで正統的ではあるが、この種の快楽主義に、針は振られている。


 性の戦争とは、快楽と享楽の戦争である。個人レベルにおいても国家レベルにおいても、突き詰めればいずれ破綻する。メンヘラーの大流行もまた、先進各国における全世界的な兆候である。始終勃起状態のアメリカを見なさい!


 負けるが勝ち、という言葉がある。
 ムージルの影響を強く受けた古井由吉の近作を読むといつも頭に浮かぶ。
 不能に耐え忍び持ちこたえ続ける人間こそが、一番の勝者なんだよ。