「私は、貴方に、用がある」


http://d.hatena.ne.jp/napsucks/20090112/1231746630


派遣村にはハートマン村長が必要だった。全員整列させて「その日まではウジ虫だ!地球上で最下等の生命体だ!」「両生動物のクソをかき集めた値打ちしかない!」「じっくりかわいがってやる!泣いたり笑ったり出来なくしてやる!」「スキンのまま生まれたクソバカか、デブ?それとも努力してこうなったのか?」「起きろ!起きろ!起きろ!マスかきやめ!パンツ上げ!」的なプレゼンテーションをTVカメラの放列の前で連日。訓練キャンプ化する派遣村、でだいたいあってるのだから正月真冬の日比谷公園で『シルミド』のごとく上半身裸で丸太渡ったり丸太担いだり丸太ボコッたり脱走者を丸太に縛り付けてボコッたりしているところを報道陣に示すべきだった。意味?「大道芸人と困窮者は汗をかかねばならない」。


それが無理なら、イニシエーションのパフォーマンスとして500人全員並ばせて端から湯浅村長が全員ビンタ。くわえタバコも張り飛ばす。TVカメラとギャラリーの前でやってみせる。猪木でないから500人片端から張り飛ばすと手が疲れるし痛いので、日比谷公園に500人を並んで立たせて、道行く人々に小銭と引き換えにビンタさせる(初詣的な意味で)。面罵させる。「殴られ屋」という商売もある。丸山眞男でなく、また左翼知識人でも市民運動家でもなく、無計画で自堕落な元派遣をひっぱたきたい人は多いだろう。メディアの面前でひっぱたかせれば宜しい。その光景が全国に流れて人々は「納得」する。ポストモダン資本主義の半分はパンとサーカスでできている。


「青鬼」は要る。半端者に一人前の顔をされると仕事を抱える人は不快に思うので、半端者と天下に周知させる役割の人が要る。そうして初めて「半端者だから仕方がない」と人は「納得」する。「性根を入れ替える」ことを前提に。憲法含めて法律は建前であって、法治国家において建前に即した市民合意こそが問われる。健康で文化的な最低限度の生活は構わないが、市民合意の主体たりえない者は市民合意の主体として認めない、と人々は言っている。要するに私たちの市民合意に口を挟むな市民面するなと言っている。だから「施し」という話になる。

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新しい年を迎えて、彼らに用があったのは派遣村だけだった。用がない場所からは去れば宜しい。貴方は誰に用があるか。誰にも用がなく、係累なくあるいは係累に用がなく、係累も貴方に用がなく、そしてこの世に用がないなら、用がない場所から去ることは選択の自由。この世は貴方に用があるか。たぶん、この世は貴方に用がない。だから貴方がこの世に用件を作れ。そう言った人がいた。貴方がこの世に用がないなら、この世もまた貴方に用がないから、そしてグローバル資本主義のクラッシュにより夢は覚めそのことが唯物論的にはっきりした以上、派遣村で目が覚めたことであるし、選択は自由です、自由とは真にそういうことです、と。


BUMP OF CHICKENが歌う通り、心臓が始まったとき嫌でも人は場所をとるし、存在が続く限り仕方ないから場所をとるというのに。そして、一つ分の陽だまりに二つはちょっと入れないから奪われないように守り続けてるというのに。「派遣村村民は許可なく死ぬことを許されない!」わけではあるまい。


2009-01-09


チャップリンも言った通り、もちろんそれは残酷な悲喜劇だが、私たちは神と戦っているのではなく生きるため人と戦っている。戦いに果てた、その余禄として神の御許に魂が行く。カエサルのものはカエサルに。この世とは人の世であるのだから、人の世としてのこの世が貴方に用があるべく務めることが生きること。努力精進とはそのためにある。しかしいかに努めても、人の世としてのこの世の貴方に対する用の有無は、人の都合。だから、貴方の方がこの世に用件を持つことが生きること。言い換えると、人を愛し、生活を愛し、人生を愛し、すべての夢を愛し、人の世としてのこの世を愛すること。それが、淀川長治もまた生涯伝道し続けた、チャップリンのメッセージだった。


むろん、加藤智大がそうであったように、そうそう人は黙って用がない場所から去らない。彼は彼なりに、人の世としてのこの世が自分に用があってほしかったのだろう。つまり、死にたくなかったのだろう。そのことを思うと気が滅入るが、生きるため人と戦い続ける私たちは戦いに果てた余禄として神の国に行く。宅間守ムッシュヴェルドゥがそうであったように、彼は彼なりのやり方で戦ったのだろう。死んだ人は死んだ人。死ぬことが決まった人も死んだ人。戦いすんで日が暮れて、兵どもが夢の跡、夢は枯野をかけ廻る。


みちアキさんの、いかにもみちアキさんらしい主張と、それに対する様々な反応について私が思ったことは。ポストモダンということだが、人の世としてのこの世に特段の用がない人は多く、しかし彼らは資本主義が滞りなく稼動する限りにおいて、人の世としてのこの世もまた自分に特段の用がないことを、唯物論的に確定させられることがない。つまり、夢から覚めた。


近代以降、資本主義ほど「用」を人間に調達してきたシステムは他にない。民族主義ナショナリズム国家社会主義も、「用」の調達において資本主義に及ぶことはなく、むろん近代以前の宗教に及ばなかった。その、資本主義が調達する「用」からの解放をこそマルクスは唱え、コミュニズムは掲げた。むろん、資本主義は勝利した。人は「用」を必要として、ともすれば「用」に中毒し、その調達のための資本主義をポストモダン社会においてなお必要とした。よく揶揄される「矢鱈と忙しがっている人」は典型的なそれ。揶揄して済むことでないのは、つまり資本主義が勝利したのは人が「用」を必要とする以上「用」の調達において最適化されていたからで、人が「用」を必要とすることは有史以来のことだから。


言い換えるなら、人の世としてのこの世が自分に用があることにおいて、人はこの世を去るに如かない場所として認識する、ということ。だから、この世に用がありやなきや、を最初に問うことは、ポストモダンの発想で、つまり故意のことだろうけれど、逆立している。「危険思想」と指摘しておられた人があったが、それはこういうこと。この世に特段の用がない人が、人の世としてのこの世から資本主義に伴う無用や用済みを告げられたことに対して、資本主義に伴う無用も用済みも自明であって、そもそも貴方はこの世に用があるのか、ないなら人の世としてのこの世は人の都合次第で貴方に無用だから、そのとき用がない場所に貴方が居続ける理由もない、と。


この世と人は、資本主義において幸福な結婚の夢を見ていたに過ぎず、夢が覚めたとき相互に対する無用を骨の髄まで知る。そして無用な場所から人は去り、人の世は資本主義の別名として人を置き去りにする。ポストモダンとはそういうことでもあった。人の世としてのこの世が人の都合次第で人に無用になることが資本主義でありそのグローバル経済における本義であるからして、人の世としてのこの世が人の都合次第で人に対して無用にならないことを合意するのが市民社会が規定する国家の機能――それが、ドラッカーとは些か異にする私の意見。


資本主義の別名としてある人の世が無用な人を去るに任せる。もちろん資本主義に逃げ場なくニューヨークの王様が夢想するユートピアもなく亡命する東側さえない、ruhenheimは死でしかない。チャップリンの陰惨で悲痛な世界観を誰もが共有するこの世を人が望まないなら。チャップリンが、あるいはディケンズが生きるため人と戦ってきた世界に、社会福祉という概念はなかった。そして素晴らしい映画が、文学が生まれたが、それはハリー・ライムが嘯くスイスの鳩時計ではある。

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去年の今頃だったか、日本社会について、こと貧困について「地獄を見に行く以外にない。」と私は書いた。地獄を見に行っているのが現在と思う。むろん、これからが本当の、であるが。明治の近代化以来、日本人の歴史とは国家に対する個人の自由の獲得の歴史でもあった。それは、戦前において近代市民の誕生する歴史でもあった。敗戦の教訓とアメリカニズムの洗礼は、68年以来の高度消費社会を経て、小泉構造改革に即した新自由主義を用意した。結果、カエサルのものはカエサルに、ではないが、国家のものは共同体に返され、個人のものは個人に返された。だから日本にあって国家は個人を守らない。係累なく資本主義の都合次第で無用を告げられた個人を人の世としてのこの世から去るに任せる。地域行政において国家のものは共同体に返され、個人に対する用の有無は人の都合次第。


だから、たとえば近代国家において軍隊は資本主義の都合に対する個人の防波堤として機能した。『さらば冬のかもめ』でジャック・ニコルソン演じるバダスキーは呟く。軍を辞めたら訪問修理の仕事だ、訪問修理だぞ。グローバル経済において、かつてのドラッカーの主張のようには企業がその機能を果たすことが既に難しい以上、資本主義に対する個人の防波堤として国家は機能して然るべきと私は思っている。そのために市民社会は合意すべき、とは「べき」を言えないが、しかし。



バダスキーは、軍隊にいるときだけ人の世としてのこの世から無用でない。彼はそのことを厭というほど知っている。だから、軍隊においてさえ無用者として扱われるランディ・クエイド演じるメドウズに気まぐれな友情を示す。その結末は悲しい。基本的人権生存権が自明とは私は思わないが、たとえばホームレスに対する国家の介入について資本主義に即してホームレスの無用を縷説する議論は、筋違いというか論外と思っている。


この世に用がない人はいても、人の世としてのこの世の方が用がない人はいない。正義でも理想でもイデオロギーでも宗教でもない、人の世としてのこの世の基盤であり、私たちの根源だ。その根源的な基盤は、資本主義に絡め取られているが、むろん私はコミュニズムを採らないし、事実認識としても価値判断としても、万国の労働者は団結しないし世界同時革命はありえない。人の世としてのこの世から、資本主義を切除することはできない。それはチャップリンの絶望の根底にある透徹した認識でもあった。しかしそれでも「我々は遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」。

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派遣村批判が私にとってわからなかったのは。「私は、貴方に、用がある」と公に示すことは人にとって、人の世にとって、必要なことと私が考えているから。資本主義の都合から自身の無用を告げられた、この世に特段の用がないかも知れない人に対して「私は、貴方に、用がある」と公に示すことの必要を、知るから。国家がひいては行政がそれをしないなら誰かがする、それだけのこと。「べき」論は難しいけれど。「私は、貴方に、用がある」という呼びかけに「私も、貴方に、用がある」と応えた人たちが500人からいたということ。チャップリン映画の明確なメッセージとしてあったように、人は「私は、貴方に、用がある」と示す必要があり、人から示される必要がある。


人間の義務とは、労働や納税や兵役の以前に、その一切を包含する社会的行為として「私は、貴方に、用がある」と「用」の存在を指し示すことと私は思っている。資本主義もまた、現在進行形の労働疎外と共に、そうして発展した。資本主義に伴う無用を告げられた人に対して「私は、貴方に、用がある」と示すことは、人の世としてのこの世にある私たちの用である。その延長として、市民合意が、ひいては憲法があると私は思っている。人の世が資本主義の別名なら市民合意も憲法も必要ない。人の世が人を置き去りにして構わないなら勝利した資本主義は今後も無傷で万能である。むろん選挙を近くして、そんなのは与太でしかなく人は政治を意識する。


少なくとも、私にとってのこの世にある用とは「私は、貴方に、用がある」と、個人的にせよ社会的にせよ示すことであり、示されることである。そのために私はこの世に未だ用があるし、私に用がある人も私が用がある人も幾らかはあり、資本主義に即しても同様、幸い人の世としてのこの世から幾らか用があるらしい。私がインターネットを愛するのも「私は、貴方に、用がある」ことをかくもカジュアルに示しうるメディアは言葉は、他にないから。