タケルンバさんについて、少し。


http://d.hatena.ne.jp/pbh/20090120/1232457290

2009-01-20


上記のエントリを拝見して。「擁護」ということではないけれど。


「ビジネスの現場に正解がなく、時には理不尽を含む」ことは私もビジネスやっているので知っている。知っている人が大半と思う。そのことはあるいは「世界に正解がなく、時には理不尽を含む」とも敷衍されると思う。「通過儀礼」が新入社員研修において要請される、そのことも知っている。ビジネスの局面においては正解がなく、時には理不尽を含むことは、現場以前の研修において知らしめることが望ましいだろう――望ましいのか?


ただ、私の考えでは、Webが公共空間であるなら、それはビジネスの現場ではない。レイヤーが違う。世界に正解がないことと、公共空間の言論において正解を模索しないことは、イコールではないし接続もされない。むしろ逆接される。「世界に正解がないからこそ、公共空間の言論において正解は模索さるべき」と。なぜなら、それが社会契約の本質だから。


私的な行動と公共空間の言論は相違するし、それは本音と建前という話ではない。同様に、ビジネスの局面において正解がなく時に理不尽を含むことと、公共空間の言論において正解を模索し理不尽を理不尽と指摘することは、別のレイヤーにある話。むろん無関係ということはない。経済と社会のねじれと相克として、事態は存在し、グローバル化において「自由主義」は危機にさらされている。


ビジネスの局面においてなお人は正解を模索し理不尽を理不尽として是正してきた――自身の損得のため。それが、市場であるということ。かつてはそう見なされてきた。その市場の矛盾が極限を迎えたから、現在の世界不況がある。日本において、児童の労働力化は禁じられており、性労働力化は論外とされている。が、グローバルには? 


市場に信を置く限り、ビジネスの局面において正解は模索されるし理不尽は正される。公私の区別と差別の駆逐は自由な市場において模索されてきた正解であった。私はさして存じ上げないが「尋常な企業社会」とはそういうものだろう。売買春が「尋常な企業社会」に属さないのは性差別のため公私が区別され難いから。

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私は、Webを公共空間と考える限りその言論においては正解の模索を前提してブログを書いてきた。「公共空間の言論には正解が存在する」ということではない。存在する正解を前提して模範解答を述べるのではなく、正解が存在しないからこそ個々人が正解を暗中模索して問いを問うべき、と。


なぜ正解を暗中模索して問いを問うか。自分のミクロの見聞を語ってマクロに及びたい、と山本夏彦は言ったが、公共空間の言論を保障する市民合意はかつて社会契約としてあった。Webという公共空間に提示される「自分のミクロの見聞」は社会をめぐる問いを意味する。


社会契約という共同幻想が御破産した現在において公共空間の言論を保障するのは工学的アーキテクチャである、というのは東浩紀の主張だが、しかし私は「自分のミクロの見聞を語ってマクロに及びたい」と思う。それが共同幻想に支えられたものであろうと。Webという公共空間に提示されるとき、「自分のミクロの見聞」が社会をめぐる問いを意味するのは、その「ミクロの見聞」は自動的に他者を包含するから。そのことを承知のうえで「ミクロの見聞」を語ること、語ろうとすること。


で。Webにおいて「自分のミクロの見聞を語ってマクロに及びたい」と、たぶんタケルンバさんは考えていない、一貫して。言い換えるなら「Webを公共空間と考える限りその言論においては個々人が正解の模索を前提すべき」とも考えておられないだろうし、タケルンバさんにとってWebが公共空間であるとは、個々人における公共概念の所在の問題ではないのだろう。タケルンバさんが自身で名乗る「自由主義者」とはそのこと。


たぶん、タケルンバさんはこう考えている。個々人が「自分のミクロの見聞」を語る、その行為の総和としてマクロは存在するのであって、個々人が公共概念を持ち寄って模索さるべきものでない、と。だから「個々人が「自分のミクロの見聞」を語る、その行為の総和」が保障されること、そのために「個々人が「自分のミクロの見聞」を語ること」が保障されること、それがWebが公共空間であることの意味であり意義である――と。言うなれば、社会契約という概念に対して懐疑的である。


タケルンバさんの考えにおいては、他者の存在を前提して「ミクロの見聞」を語ることは「Webという公共空間に提示される「ミクロの見聞」が自動的に他者を包含する以上、そのことを承知のうえで「ミクロの見聞」を語ること、語ろうとすること」ではない。他者は他者で「自分のミクロの見聞」を語る。自身は自身で「自分のミクロの見聞」を語る。そのめいめいの勝手な行為の総和として「マクロ」は存在し、それはWebという公共空間が存在することの結果であり、同時に意味である。


つまり、個々人がめいめい勝手に「自分のミクロの見聞」を語り合った結果として「マクロ」は存在する――Webという公共空間において。正しく「自由主義者」と思うし、公共に対する捉え方・考え方が、たとえば私とは根本的に違う。むろん優劣の問題ではない。


Twitterでのタケルンバさんと有村悠さんの対話を拝見して思ったのは、すれ違うのも致し方ない、ということで、たぶん有村さんは、「公共空間」がWebが存在する限り工学アーキテクチャに規定されて自動的に存在し存続する自然、とは捉えていないし、ゆえにこそ個々人が正解を暗中模索して「マクロに及」ぶべく「自分のミクロの見聞」を語ることがWebにあっては必要、と考えている――私同様に。タケルンバさんはそうではない。そしてそのことが、即批判/非難さるべきこととは私は思わない。自分と考え方は違うが、「自由主義者」のスタンスであり、見識と思ってきた。

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id:takerunbaはそもそもセクハラちっくなおっさんキャラで売ってたような気がするし、界隈もそれを容認してた節があるので今回の件で突然セクハラだ何だって言われても本人的には「ええ!Σ('A`)今更?」としか思ってないんじゃないか。

http://d.hatena.ne.jp/pbh/20090120/1232457290


反論ではむろんないけれど、私はそういう認識はまるでなかった。「セクハラちっくなおっさん」はかくも「自由主義」を貫徹しないし、私はそのスタンスと「自由主義者」ロード・タケルンバの見識を了解しており、また支持してもいたので「同意はしかねるけれど考え方はわかる」と思ってきた。むろん性観念はまるで違うが、それこそ他人の話。


個々人がめいめい勝手に「ミクロの見聞」を語り合った結果として「マクロ」が初めて存在する、というWebという公共空間における言論に対する考え方において、「ミクロの見聞」を自身の損得から出発してあくまで「ミクロの見聞」に終始して語ることが、世界に資する、という「自由主義者タケルンバ卿の見解については、考え方は違えど、支持しないものではなかった。だから、マカオの件にせよ性的搾取構造云々を一切捨象して自身の損得から出発した「ミクロの見聞」として終始語ることは、それがタケルンバさんのスタンスであり、持ち味と思っていた。


繰り返すが、そのこと自体が必ずしも殊更に批判/非難さるべきこととは私は思わない。いや海外買春奨励はNGと思うがそうではなくて。「ミクロの見聞」を「ミクロの見聞」に終始してWebで語り論じることについては。「Webでの発言に際する姿勢が間違っている」という指摘に対する駁としてタケルンバさんが示す「自由主義」はある。姿勢を問うてタケルンバさんが「自由主義者」の見識において退くはずもない。また退かせるべきとも私は思わない。それがタケルンバさんの一貫したスタンスであり持ち味なのだから。批判すべきでないということではまるでないし、私も批判した。

タケルンバさんはそもそも昭和のエロ親父臭プンプンの人だけど、それなりに知性をもった表現もあって、そんなにセクシズム丸出しではないと個人的には思います。そこは変える必要ないし、twitterでのビジネス云々の話は「そんな事現場でグズグズ言ってたら仕事になんねーよ!」っていうのを、「いや、それはセクシズムだ、セクシストである事を、ここで跪いて懺悔しなさい」みたいな空気で返すから揉めてただけだと、傍から見てると感じたんですけどね。

2009-01-20


「Webでの発言に際する貴方の姿勢は間違っている」という批判は、ことにそのような発言姿勢をスタンスかつ持ち味としてきたブロガーに対してそう批判することは、「ここで跪いて懺悔しなさい」に傍から見えることがあるのだろう。そのこと自体は、頓珍漢でも誤解でもないかも知れないと、私は思う。批判さるべき主張を批判することとは別に。

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私は、ビジネスの局面があるいは世界が正解なく時に理不尽を含むからこそ、個々人がミクロの見聞を語ってマクロに及ぶべく目指すことがWebが公共空間であるとき言論を保障すると思っている。社会契約それ自体が最初から擬制であったとしても「言論」という概念が葬られることを望まないので。


たぶん、タケルンバさんはそう考えておられない。ビジネスの局面があるいは世界が正解なく時に理不尽を含むからこそ、マクロという正解から演繹されることなくマクロという正解へと帰納されることもない個々人のミクロの見聞とその総和のために公共空間としてのWebとその言論が存在する。社会契約ならびに市民合意とは正解としてのマクロであって、擬制に過ぎない。そう考えている――むろん一切は一読者としての勝手な推量だが。「だから」Webは自由に発言し自由に批判し批判されるべき場所としてある。


私は、市民合意という正解としてのマクロを模索するために個々人が公共概念において、言い換えれば自動的な他者の包含を承知して、Webという公共空間で「ミクロの見聞」を語る「べき」と、自分の発言姿勢としては思っている。タケルンバさんの「自由主義」に基づくスタンスは了解する。自分と違う考え方が、Webでの発言に際する姿勢が、存在することは当然なので、またタケルンバさんのそれはそれ自体で批判さるべきものとは私は思わないので、私はタケルンバさんの「発言姿勢」それ自体について干渉する気はないし、それはタケルンバさんの是とする「自由主義」に反する。ただ――繰り返すが。私の考えでは、Webが公共空間であるなら、それはビジネスの現場ではない。レイヤーが違う。


だから。セクシャルハラスメントの問題については、タケルンバさんの信念たる「自由主義」と「ビジネスの局面に正解がないこと」とはなんら関係ないので、そして前者は了解するし後者はその通りだが私は改良主義なのでセクハラは是正さるべきと思っており、また後者は「自由主義」とはまったく関係がない、というか別のレイヤーにある話なので、後者においてタケルンバさんが御自身の「自由主義」を主張することは全然違うのではないか、というのが私の見解。


社会は市場の別名ではない。タケルンバさんが名乗る「自由主義」とは市場や商行為の名のもとに古色蒼然たる社会的抑圧を再生産すること、またそのことに加担することではないと私は思っている。そうであるなら、それはセクシズムの以前に、「無人島」の設題がそうであるように、BUSINESSに対する侮辱でしかないし、「自由主義」の名を貶めている。