1月24日(日)午前11時  新宿駅南口で会いましょう


大変遅ればせながら、あけましておめでとうございます。私は元気です、というか多忙です。映画観る時間が取れない。なぜかといえば。


在特会が明日の日曜日の真っ昼間に新宿で臨時大会ののち国民大行進というのをやるそうでしてね。


http://www.zaitokukai.com/modules/news/article.php?storyid=322

YouTube


血沸き肉踊るのは結構なのですが、「勝手にやってろ」というわけにもいかないのが私の個人的な落とし前でして。新宿であるし。というわけで、転載です。


1月24日(日)午前11時 新宿駅南口出口です。私もいます。駆け付けたい方、あるいは在特会の言行に関心ある方は、いらしてみてください。

■あれがヘイトクライムだ! レイシストを通すな! 1.24緊急行動

http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-21.html

集  合:1月24日(日)午前11時〜 新宿駅南口出口

(集合場所は変更する可能性がありますので、当日まで「ヘイトスピーチに反対する会」のHPを注視してください)

行動予定:レイシズムに反対する街頭宣伝・フリースピーチを行います。

レイシスト在特会」の「ヘイトデモ」に対して言論・表現による抗議を呼びかけます)

呼びかけ:ヘイトスピーチに反対する会

http://livingtogether.blog91.fc2.com/

主  催:「レイシストを通すな!1.24緊急行動」実行委員会

連絡先:livingtogether09@gmail.com

*意見の相違を暴力で解決し、それを正当化してきたグループの参加を認めません。

ヘイトスピーチに反対する会 あれがヘイトクライムだ! レイシストを通すな! 1.24緊急行動


ところで。時間がないので本当に手短かつ超雑駁になるのですが。


どこまで落ちる「愛国者」の漢字力 - Transnational History

『どこまで落ちる「愛国者」の漢字力』で批判したもの - Transnational History

b:id:fujiyama3  もしかして西村修平氏は、この程度の漢字間違いはどうでもいいと思ってるのだろうか。日本語を大切にしない野郎ですね。

はてなブックマーク - どこまで落ちる「愛国者」の漢字力 - Transnational History


結論から申しますと、比喩ですが、彼らは自分が首から下げるプラカードを読んでいないのですよ。彼らにとって、外国人参政権も何もかも、ヘイトを主張するためのダシなので。すなわち、「我々国民」と「それ以外」を分断する線を引くためのダシなので。だから、「我々国民」の措定を帰結する土俵に、たとえそれが在特会の言行を批判するためのものであったとしても、乗るべきではない、というのが私の考えです。そして、そのような「我々国民」の措定を帰結する土俵として、現行の外国人参政権をめぐる議論はある。在特会が設定する土俵そのものとして。


95年、とある国際政治学者がオウム真理教事件について著した書物の中で、ナチスについて引いたうえで、およそ次のように書いていました。国家の奪取を目指したにもかかわらず、麻原も上祐も、ヒトラーゲッベルスの戦略的天才とは比べ物にならない杜撰さである、と。――そういう問題ではないだろう、と当時ですら私は思いました。


10代だった私はその以前に考えたことがある。ヒトラーゲッベルスはバカだったのか否か、と。ホロコーストの問題について、そのような土俵で考えることそれ自体が詮無い、というのが当時の私の結論で、今もそれは変わりません。知的で誠実なナチの小話ではないけれど、バカではなかったからなんだというのか。少なくともそれは、たとえば今回のような、反差別の抗議行動の軸とはなりえない。


バカであろうがなかろうが、殺戮者は殺戮者でしかなく、憎悪の扇動者は憎悪の扇動者でしかない。狡猾な戦略的天才であることはなんらそのことの免罪符にはならない。戦略的天才であることを理由に「見ろ!人がゴミのようだ!」とその戦略的天才であるらしい誰かが引き起こす殺戮に酔いしれ、殺し殺されるゴミであるしかない自分に酔いしれるのは、それは高校二年生の発想です。私は95年に高校二年生でしたが、流石にそれはなかった。


そして――この15年、そうした発想のフィクションはまことに多かったと思う。別にそれが良い悪いということではないけれど。何もかも不可能である中で、私たちに可能なことは、何もかも不可能な自分に酔いしれるだけ、ということか、あるいは決断主義か。新井英樹は、ポール・ニューマンの『暴力脱獄』を観て「主人公がどうして反抗するのかがわからない」と述べた「若い子」がいたことに衝撃を受けたと語っていました。


人間の尊厳という観念は、その社会における実現は、確かに困難ですが、その困難ゆえに社会など知ったことかと「殺し殺されるゴミでしかない私たち」と言い切ってしまうことは、なるほどそれよりずっと易しい。安易で安直です。そして言った本人は気持ちがいい。それを「どや顔」と言うのでしたか。言ってしまえば言った本人が気持ちいいだけの、それゆえに、それを言っちゃあおしまいよ、という事柄は、確かにある。別に自由主義を批判しているのではない。むろん、dj19さんがそのような「どや顔」をしているということでもありません。


ただ、在特会の中の人が自分の首から下げるプラカードの漢字を間違えるのは、バカだからでも保守失格だからでも愛国者失格だからでも日本人失格だからでもなく、むろん可哀相な人たちだからでもなく、彼らにとって言葉とは、誰かを脅し貶め威嚇し黙らせるための道具でしかないから。だから彼らは「血沸き肉踊る」もそうだが、何だって言う。「叩き出せ」とも「ゴキブリ」とも。そしてそれは、残念ながら歴史が証明しているように、道具が道具である限りにおいて、効果覿面に他者を殺傷する。現実に。


他者を殺傷するための効果覿面な道具を道具としてそれこそ戦略的に駆使する手合いに対して、戦略レベルの土俵に乗って、あるいは保守失格愛国者失格と、そのバカや不誠実をバカや不誠実として批判することは、詮無い行為だと私は思います。なぜならそれは、国民の意識の基準としてあるとされる「国語」に対する賢明や誠実の場所から、その逸脱者を批判する、言うなれば保守主義者の土俵そのものだからです。思うに、それは結局のところ、在特会のロジックと見分けが付かない。国民の意識の基準としてあるとされる「言葉」に対する誠実/不誠実が、世界的に現実の差別と抑圧と分断と殺戮と「民族浄化」を引き起こしてきた歴史を思えば。


国民の意識の基準というフィクショナルな観念に先はあるか。先がないことを知っているのが保守ですが、先がないことが、すなわちそのフィクショナルな観念の帰結が、現代においてなお現実の差別とそれに基づく暴力を引き起こすことには知らない振りをするのもまた保守です。自己批判ですが。


何が言いたいかというと。在特会の中の人は国民の意識の基準としてあるとされる「国語」など信じていないし、そのような「国語」に対する誠実などもっと信じていないし、自らが撒き散らす差別意識や憎悪さえ信じていない。国民の意識の基準というフィクショナルな観念をそもそも信じていない。むしろ信じていない自分自身を是とする。ゆえに不誠実ですが、その不誠実が現代の社会を生きる私たちにとって所与の条件としてあることこそ問題です――それをしてシニシズムと言いますが。シニシズムがもたらす暴力性が現実の差別を背景に剥き出しとなったのが現在です。


なぜなら彼らは、信じていないからこそ、あのように振舞えるし、そしてそのゆえにこそ、その差別と憎悪は燎原の火のごとく不信のデフレスパイラルとして社会に蔓延する。「誰かの差別と憎悪」として。「自分自身は信じていない差別と憎悪」として。それは、在特会と合わせ鏡どころか、在特会と同じことであると、「誰かの差別と憎悪」「自分自身は信じていない差別と憎悪」をダシにするクレバーな人々には伝えたい。もちろん自己批判を含みますが。


彼らがバカであるならば、貴方も同程度にバカであるし、彼らが賢明なら、貴方も同程度に賢明であるし、彼らが戦略的天才とやらであるならば、貴方も同程度に戦略的天才とやらである、と。というか、それこそがゲッベルスの振舞いであり、かつてのドイツ国民の振舞いでした。バカであろうと、賢明であろうと、戦略的天才とやらであろうと、ホロコーストは引き起こされた。いや、誰しもバカであることを拒もうとしたがゆえに、賢明であろうとしたがゆえに、戦略的に振舞おうとしたがゆえに、ホロコーストは引き起こされた。


不誠実であることに対する誠実、と言うと島田雅彦のような80年代的な話になりますが、ベタに在特会の「国語力」を云々するよりは、不誠実であることに開き直ることを不誠実に対する誠実と信じ込む/強弁する手合いを批判する方が、それこそ誠実な行為ではないかと私は思います。戦略以前の。


だから――「誰かの差別と憎悪」「自分自身は信じていない差別と憎悪」という土俵に乗るなら、それは在特会の乗っている土俵と同じです、とdj19さんにはお伝えしたいところです。何物も信じない自分のことは信じている人が世の中にはありふれている、とそういう話です。むろん、dj19さんがそうだと言っているのではまったくありません。


ともあれ、ブクマを拝見しましたが、dj19さんも、明日、新宿駅南口で会いましょう。待っています。

「対話」の地平は蜃気楼の彼方に


年の瀬なので――遅ればせながらかつ手短になるけれど、書いておく。


はてなブックマーク - macska dot org » 在特会と通じる性質を見せる「反在特会」の取り組みと、「上から目線のエセインテリ」

はてなブックマーク - http://twitter.com/toled/status/6928448649

mujige  「在特会をやっつけた、ばんざい!」なんて思っている人は少なくとも私が知る限り(特に直接の被害者側には)いない。ともかく集会が無事開けてほっとしているという程度ではないか。ネット上ではそう見えるのか?

はてなブックマーク - macska dot org » 日本の左翼や社会運動の問題点/不十分点を指摘するために、朝鮮学校に在特会が押し掛けた事件をネタに使ったつもりはなかったんだけれど、どうもそういう流れになってしまっている件について。

mujige  前田さんの集会報告の大半が会場警備の話に費やされたのは、それだけ在特会の妨害が激しく、その対策に追われていたから。流血覚悟の人も多かったのではないか。その緊迫した雰囲気は現場にいないと見えないかもね。

はてなブックマーク - macska dot org » しがらみも責任もないからこそ、言えることもある、という話/kgrさんへ


11月1日の朝鮮大学フェスタの際も、12月19日の緊急報告会の際も、駆け付けた私としては、怪我人も逮捕者も出なくてよかった、という感慨がすべてである。私はヘイトクライムをまったく歓迎しない。念の為に書いておくと、11月1日は言うまでもなく、12月19日の緊急報告会の際も、在特会の攻撃対象とされ、そして実際に襲撃された人々が参加し、登壇し、関わっていた。mujigeさんの見解に全面的に同意することを、一参加者の証言として私はここに明記しておく。


私は早くに馳せ参じて会場入りしていたが、一服して開演間際に戻ろうとすると、会場であるセミナールーム前のロビーで知人を見かけた。会場に入れなかったと言う。確認したところ、知り合いはいるかと尋ねたところいないと答えたので入れられなかった、そうするよりほかなかった、と。私の知り合いとわかって即入場無問題となった。知人は懇親会にも参加した。そういうことはあった。そうした「ソリッドな対応」(前田氏の言葉)については、前田朗氏も説明とお詫びを閉会時に仰っていた。即対応としてのその判断を原則論の立場から批判することは私はできない。


排外主義者と社会的少数者は「対話」できない。レイシストと被差別者は「対話」できない。レイピストと性犯罪被害者は「対話」できない。当たり前の前提と思っていたが、どうもそうではなかったらしく、日本社会の差別に対する認識の惨憺を改めて思い知った次第である。むろん、macskaさんのことを言っているのではまったくない。だから直リンもしなかった。


「対話」できないのが他者である。にもかかわらず「対話が大事」と「貴方」が信じるなら、「対話」の可能な地平を「貴方」自身が――「可能性」としてでしかないにせよ――目指すよりほかない。尊厳ある人間と相互に認め合うことによって。その合意によって。それをして反差別の旗幟と私は考えている。「対話」できない他者を排除することが「市民」の選択としてあったわけでは、少なくとも12月19日の緊急報告会はない。「対話」の不可能性において「こそ」、虐げられる者の傍らに立つことはできるし、そのことに意味はある。それが、あの集会の趣旨であり、反在特会の旗幟と、私は考えている。


「一般論として」だろうが――「批判は生産的か」と言った人がいた。その人のことは私は好きだが「貴方が生きていることは生産的か」と思わず言いそうになった。人は、生産的であるために生きているのではないし、生産的であるために何かを批判するのでも、生産的であるために声を上げるのでもない。人間として存在するために生きている。人間として存在するために声を上げる。人間として存在するために何かを批判する。そうせざるをえない人がある。それは、本人の性分の問題ではない。そして――私のことではない。


差別とは他者に対する存在の否定である。在特会がしているのはそれそのものである。そして、少なくともこの国では、社会的少数者は、人間として存在する、ただそれだけのことのために莫大な労苦と犠牲と屈辱を強いられる。尊厳ある人間として存在しようとしたとき、「日本社会」として存在する――すなわち「世間様」という名の――聳え立つ壁に阻まれ、計り知れない困難に直面する。


その、暴力そのものである壁の前に立ちすくみ、自明なものとして存在する労苦と犠牲と屈辱と困難のために、聳え立つ壁に対して口を噤み、あるいは声を上げることにも、そして人間として存在することにさえ、思い至らない人々がある。かかる理不尽な状況が現在進行形としてあるとき、「対話」も糞もない。差別構造とはそういうことである。それが、差別でなくして何であろうか。口を噤ませておいて「対話」を云々することが、「市民」の選択そのものとして、この美しい自由主義社会ではある。意識さえされずに。そしてインターネットでも。


そしてそのことを、すなわち社会的少数者が堪え忍んできた理不尽極まりない労苦と犠牲と屈辱と困難を、被抑圧者の「自己責任」へと転嫁するのが、在特会のロジックであり、付け加えるなら自衛論のテンプレートである。その言説は常に、壁の側にあり、差別構造という壁と一体化し、壁を補強し更新し、あるいは壁を自明に存在するものとして「自由な個人」からアウトソーシングし、結果的に、私たち自身を壁そのものと規定する――「日本国民」「自由主義社会の市民」という。


それは、主体性の剥奪と同時に、非の打ち所のない典型的な排外主義である。壁とは、差別構造そのもののことであり、「自由な個人」の無前提な措定と掲揚においてアウトソーシングされ、そのことによって現在も作動し続ける主体性の剥奪装置であり、社会的少数者に対する抑圧そのもののことなのだから。言うまでもなく、村上春樹エルサレム賞受賞スピーチの話をしているのではない。


排外主義者と社会的少数者は「対話」できない。レイシストと被差別者は「対話」できない。レイピストと性犯罪被害者は「対話」できない。自らの存在を否定する者と、どうして対話できるだろうか。存在を否定しておいて、対話しようとはどういう了見だろうか。まして傍から「対話せよ」とは、どういう冗談だろうか。繰り返すがmacskaさんのことを言っているのではまったくない。そしてもう一点付け加えると、私自身の前記エントリに付されたコメントに対するレスでもまったくない。


歴史的な差別構造に依拠した、社会的少数者に対する存在の否定であるヘイトスピーチは、いかなる意味でも、当事者の耳に入れる意義を持たない。にもかかわらずヘイトスピーチが自由であるのが、この国の現在であり、そしてヘイトスピーチ規制に批判的な私の立場の帰結である。その帰結は、わかりきっていたことではあったが――8月以来、私にとっての認識が変化したことは違いない。三鷹での在特会の言行を目の当たりにして以来。


はてなブックマーク - BBCニュースフォーラムの見出し「同性愛者は処刑されるべきか?」にTwitterユーザが激怒 - みやきち日記


「同性愛者は処刑されるべきか?」という問いが論外であり、またその問いを検討することそれ自体が論外であるのは、近代人権思想を掲げる社会が誰の存在も否定しないことを至上命令とするからである。それをして寛容と言う。誰かの存在を否定する言行に対する「寛容」は、それは寛容とは言わない。少なくとも、リベラリズムの文脈に基づく限りにおいては。多文化主義と文化的多元主義の相違とは、そういうことなのだが。よって、再三書いてきた通り、私は原理的死刑廃止論者である。誰の存在も否定しないことに私は少なくとも賛成するので、サルトルの理論は好かないが、11月も先日も駆け付けたのだった。


朝鮮大フェスタの後日、人を介して、朝鮮大学の中の人の感謝の言葉をメールで頂いた。拝見して――私にとっては、単なる、行き掛かり上の個人的な、存在を否定しない/させないための瑣末な行動でしかないことが、当事者にかくも感謝されていることを知って、以前に否応なく関わった別件(ネット上のことではない)の際と同様、複雑な感慨を覚えた。日本に暮らす男性ジェンダーと親和的な日本人である私にとって在特会の問題は、いや外国人や社会的少数者の問題は、いつだってそのような複雑な感慨と共にある。


かかる私は「もはや保守とは言えないのではないか」(大意)と酒の席で常野さんに総括を迫られた突っ込まれたけれど、真面目に答えると、在特会の一連の言行に対して迅速な対抗行動を実施し、「排外主義を許さない」と在日の人々と共に緊急報告会を開き、在特会の攻撃に対して大事に至らぬよう集会の中止まで検討して、しかし予告された妨害を阻止して開催にまでこぎつける信念と行動力を持ち合わせた人々が、保守主義者にはいなかったということ、それがすべてである――私にとっては。


それもまた、わかりきったことではあったし、むろん保守とはそういうものではあるが、そしてそれは必ずしも否とされることではないと私は思うが(「行動する保守」が在特会に限らず全世界的に凡そごらんの有様になる以上)、しかし私は、「対話」の不可能性において、現在進行形で存在を否定されている、そしてずっと否定されてきた人の傍らに立つことが許されるとき、たとえそれが私自身の渡世と世界観に対するリグレットからの欺瞞であろうと、そのことに躊躇はない。この日本社会にあっては、私と被差別者である人々は立っている場所が違う――よって「対話」の地平などない――そのうえでなお。それが、「表現の自由」を私が主張してきた意味でもあり、落とし前でもあるから。


人は、たとえ「対話」が不可能であっても、人に応えたいと思うべきだと、すなわち、人が尊厳ある人間として存在するために、自由であるために、否応なく上げる叫びに応えたいと思うべきだと、私は自分自身については考えているし、それが私の言行の、些か能天気な原動力ではある。ネットでも、むろんリアルでも、渡世においても。

見果てぬ夢とハーモニー


どうして「差別する自由」とかそういう話になってるの……


tikani_nemuru_Mさんには申し訳ないけれど、kadotanimitsuruさんに対してそのように指摘することは、たぶん藁人形です。


私を含めて、どいつもこいつも、話を極端な方向に振るのもう禁止な。 表現の自由? そんなもん知るかぁ!!! ――逆ギレはさておき。


id:kadotanimitsuruにおける「表現の自由」 - 地下生活者の手遊び

表現の自由はサイコーだ! - 地下生活者の手遊び


私の方でも補足しますと。

b:id:T-3don メタブクマ, 議論  しかし、sk-44さんのエントリーを受けてなおこう言うブクマをつけるか、っていう前提がすっぽり抜け落ちているブクマが散見、いや結構見受けられるんだけど。これは国語の問題で済むのかな。

はてなブックマーク - はてなブックマーク - id:kadotanimitsuruにおける「表現の自由」 - 地下生活者の手遊び


T-3donさんにも申し訳ないけれど、私は、id:kadotanimitsuruさんは当然そう言うだろう、と思った。というか、もっと正面切って批判されるかと思った。見解立場が異なるのだから。ただ。kadotanimitsuruさんに対して改めて私の見解立場を申し上げるなら。

kadotanimitsuru 1984年, 差別 の自由こそが真の自由だよ。だからそれを(「個人の御勝手」に封じ込めた上で)温存しないと社会自体から自由が無くなる。全ての個人が漂白される。表現の自由は思考の自由。全ての個人にAKを! 互にF*CKと言い合う世界を!

はてなブックマーク - BE FREE! - 地を這う難破船


「「個人の御勝手」に封じ込める」ことがどのように可能か、という話です。私はヘイトスピーチの規制にも反対です。私の基本的な立場は、以前も書いたように「差別意識は顔に出すな」です。そして、kadotanimitsuruさんは決してそのようには考えない。これは批判ではない。見解立場の相違についての確認です。


私に言わせれば、差別意識を顔に出さないことのプロトコルとしての社会合意さえこの国にはない。そのことを是とされるのがkadotanimitsuruさんの見解立場と私は理解していますが、しかしその結果、差別意識はインターネットを舞台に延々垂れ流される。そのことで抑圧される、既に抑圧されている、散々抑圧されてきた者たちがいる。むろん「キモいオタク」もそうでした。男性ジェンダーの差別と抑圧にさらされてきた人々としての彼/彼女らもまた。


私は是としませんが――「差別もある明るい社会」とは、万人の万人に対する闘争として、あるいは被抑圧者のプロテストの武器として「差別」が存在する社会のことではありません。呉智英は「封建主義者」なので。全ての個人にAKを与えたところで一方的な虐殺が回避されるはずもなく、互にF*CKと言い合う世界で差別と抑圧から個人が解き放たれるわけでもない。その程度に、構造差別は強固です。そしてそのようなことは、kadotanimitsuruさんは百も承知と私は思っています。


kadotanimitsuruさんにとって「「個人の御勝手」に封じ込める」こととは、私たちが個人であるという合意のもと万人の万人に対する闘争として「差別」することが可能な「真の自由」を実現する、ということだと私は理解しています。そのとき「個人」は理念型として措定される。


確かに、表現の自由は思考の自由ですが、同時に、表現の自由は思考の表出とその相互的な検討の自由です。表出に際して相互的な検討から降りうることが「真の自由」なら、その自由は構造差別をなんら解体しない、と私などは考えますが、たぶんkadotanimitsuruさんにおいてはそうではない。「見解立場の相違」とはそのことです。差別意識を顔に出すことの自由が真の自由なら、私はその自由には乗れません。あまりにも形式的な議論に過ぎる。


表現の自由」は形式論では済まない、しかし、戦前以来の歴史的な法措定権力が現在の憲法理念と乖離していることがあきらかな社会においてはその限りではない。それが私の見解です。そして付け加えるなら、「基本的人権の範疇」として「表現の自由」を主張することと「「「個人の御勝手」に封じ込める」ことがどのように可能か」考えることは両立する――というのが私の見解です。


ただ、そのとき理念型として措定された「個人」を前提することはできない、というのが私の考えです。なぜなら、理念型として措定された「個人」を前提して「「個人の御勝手」に封じ込める」ことは実質的にトートロジーでしかなく、「どのように可能か」という議論にはなりえないからです。そのトートロジーをして「基本的人権の範疇」とkadotanimitsuruさんが再三主張しておられることは了解しています。「個人の自由」とはそのことである、と。それは、ひとつの見識と私は思います。


ただ、私はその見識には乗れません。「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」の主張が「「個人の御勝手」に封じ込める」ことではありえないことは明白だからです。莫迦莫迦なことを言うことが「個人の御勝手」で済ませられることならどれほど楽か。差別とは、莫迦莫迦なことを言うことが「個人の御勝手」で済ませられないことだから、問題です。ルワンダ虐殺の際のラジオDJがそうであったように。あるいは彼は莫迦ではなく、悪意をもってそうした。つまり、「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」の主張は、憎悪の扇動をなんら掣肘しない。


莫迦莫迦なことを言うことは個人の御勝手である――そう言って片付けられたらどれほど楽か。そうであるなら、この表現規制が公安マターとしてある、戦前以来の歴史的な法措定権力が現在の憲法理念と乖離していることがあきらかな国で、私も「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」を明確に主張するでしょう。しかしそうではない。それが、私の見解です。


そして繰り返しますが、私はヘイトスピーチ規制にさえ反対です。だからこうしてblogを書いている。莫迦莫迦なことを言うことは個人の御勝手である――少なくともこのインターネットにおいて、私がそのように片付けないのは、私自身の「御勝手」です。しかし、私が私自身の行動についてそう言えるのは、自らを被抑圧者の側と私自身が考えていないからです。


「「個人の御勝手」に封じ込める」こととは、理念型としての「個人」の措定において、自他の政治的/社会的身体とその決定的な非対称性を捨象することと同義です――形式的に。捨象することによって理念型としての「個人」が見出されるなら、あるいは、捨象することによってしか理念型としての「個人」が見出されないなら、私はそのような個人主義には乗れません。しかしkadotanimitsuruさんは、後述しますが、捨象することによって理念型としての「個人」を見出しているわけではない、と私は考えています。


だから、これはkadotanimitsuruさんに対する反論ではありませんが、私は保守主義的な個人主義者なので、理念型として措定された「個人」に基づく議論は、その捨象において自他の政治的/社会的身体とその決定的な非対称性を忘却することへしか行き着かないと考えるのです――kadotanimitsuruさんが、あるいは多くの「キモいオタク」が忘却していないとしても。だから――そのことをkadotanimitsuruさんの責とは私は必ずしも考えませんが――現在「差別する自由」とその是非という極端な話へと行き着いてしまっている。


差別とは、自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性をもたらす権力関係において存在すること。そのような権力関係に対するプロテストが理念型としての「個人」の措定にのみよって贖われるか、私は悲観的です――それが「基本的人権の範疇」の意味であるとしても。制度としての権力関係は形式的に「解消」されるでしょう。しかし実際は。「解消」が事実上空論であるがゆえに、そして権力関係に対するプロテストさえ今なお困難であるがゆえに、「表現の自由」は形式論では済まない。それが私の見解立場です。その「実際」を、kadotanimitsuruさんが存じ上げない「お花畑」であるはずがない、私はそう考えています。


そして同時に――戦前以来の歴史的な法措定権力と現在の憲法理念との乖離があきらかな社会において、「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」は何度でも主張されて然るべき、と私は考えます。ややこしい話で、そのややこしさについてkadotanimitsuruさんは承知されていると私は考えています。そのうえで、見解立場の相違は存在しますが、しかし。


表現の自由」の旗幟に立つとき、それが結果的なことであるとしても、特定の誰かにシワを寄せてはならないし、寄せるべきでは決してない。その点において、私とkadotanimitsuruさんは見解を同じくしうると私は考えています。誰かにシワを寄せないための「表現の自由」に私は同意するものです。そして、それは規制をもってすることではないと私は考えます。以上もまた「妄想を投影」かも知れませんけれど。「莫迦莫迦なことを言うことは個人の御勝手である」として片付けることを私が是としないように、「差別に対する意識の問題」として片付けることも私は是としません。


権力関係において規定されているカテゴリーに即したレトリックに対しては、その政治的文脈について敏感であれ――ということは言えるでしょう。「獣は檻に」が予防拘禁論としてありうる、と一部で見なされたことも、権力関係において規定されているカテゴリーに伴う政治的文脈の問題としてあった。つまり、Francesco3さんが使用した表現に抑圧の政治的文脈を読み取った人がいた。


しかしその表現は、「男」「女」という主語において、鈍感な、あるいは確信犯の渡辺淳一が示した、既存の政治的文脈に即したカテゴリー間の搾取である言説に対するプロテストとしてあった。そのことは、たとえばhokusyuさんにせよApemanさんにせよ縷々説明しておられます。権力関係において規定されているカテゴリー間の搾取の問題である、と。言い換えるなら――「男」「女」という主語における――マジョリティとマイノリティの問題であると。


あるいは「男性ジェンダー」「キモいオタク」という、マジョリティとマイノリティの、権力関係において規定されているカテゴリー間の搾取の問題である、と。権力関係において規定されているカテゴリー間の搾取は、そのように、無数の主語の組み合わせと共に、無数に存在している。「自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性」は、まさにそのようにしてある。そしてそのことは、必ずしも法の問題ではないし、「法の下の平等」の形式的な実現によってのみ解体されることではない。付け加えるなら、この国における排外主義の主張がそうであるように、あるいは性産業従事者に対する差別がそのようなものとしてもあるように、形式的に実現される「法の下の平等」が時に誰かを排除する。


自由主義とはつまりそういうことですが――「法の下の平等」の形式的な実現によって「自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性」が解体されうると考えるなら。そのときどうするか。「「「個人の御勝手」に封じ込める」ことがどのように可能か」考えるとは、私にとってはそういうことです。言論において「表現の自由」の旗幟に立つとは、たぶんにそういうことです。解体など不可能、という話については、harutabeさんに対するレスの方で後述します。


自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性をもたらす既存の政治的文脈に即したカテゴリー間の搾取が差別である以上、それは、理念型として措定される「個人」を抑圧するものとしてしかありません。かかる抑圧に対抗するとき「「個人の御勝手」に封じ込める」ことをもってするなら、すなわち自他の政治的/社会的身体とその決定的な非対称性を捨象する形式論をもってするなら、自他の政治的/社会的身体の決定的な非対称性の捨象と、理念型として措定される「個人」の抑圧は、美しく結託するでしょう。それが、現在の状況です。「個人」という人権概念に裏打ちされたかけがえのない価値が実際にはきわめて困難である現在です。


私が「私たちが、男性でも女性でもなくマジョリティでもマイノリティでもなく構造差別の加担者でも犠牲者でもなく真に「個人」であることは、大変に困難なことです。あるいは不可能なことです」と書いたのは、そうした状況を指してのことです。個人主義者である私は、しかし、理念型としての「個人」を措定することの困難を、否応なく認識せざるをえません。kadotanimitsuruさんも、誰しもそうでしょうけれど。


私が個人主義者であるのは、人権概念に拠るものでも理念型としての「個人」の措定に拠るものでもない。端的に、ロバート・エヴァンスの言葉を借りるなら「人生という学校」を、私がそう考えて生きてきたからです。比喩ですが、クラスメイトを他者と考え、その人間としての尊重を自明として私が生きてきたからです。


そしてたぶん、kadotanimitsuruさんにとっての個人主義も、あるいは多くの「キモいオタク」にとっての個人主義も、そのようなものとして存在するのであって、形式的な空論によって贖われてきたものでは根本的にない、と、私は勝手に考えています。そして再三になりますが、「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」の主張はされてされすぎることはない。私がtikani_nemuru_Mさんと交わしてきたのは、「表現の自由」の価値のありようをめぐる意見交換でした。


tikani_nemuru_Mさんのエントリに対して、一点だけ、どうしても申し上げたいことがあったので。

で、リンクしたエントリの趣旨は、

  • 差別というものがまったくない理想状態では、表現の自由は完全に認められる。

であり、ブクマコメで「理想状態での表現はグロげちゃになると思う」と確かに発言していますにゃ。

もちろん、ここでのキモは「差別というものがまったくない理想状態」というファンタジーな前提だにゃ。言い換えれば、自由と個人が万人において確立している理想状態にゃんね。

こういうありえにゃー状態を前提としてなら、表現はなんでもアリで、げろげろグチャグチャ多いに結構。なんでも陵辱し放題やり放題。ここにはニンゲンの自由を阻害する「差別」がにゃーので、Everything is gonna be alright !

表現の自由はサイコーだ! - 地下生活者の手遊び


表現の自由が完全に認められる、差別というものがまったくない理想状態での表現は、決してグロげちゃにはならないことを私は確信しています。そのことの是非は措くとしても、また、「だからこそ「差別もある明るい社会」を!」という話は採らないとしても。kadotanimitsuruさんが言われているのはそういうことです。大いに結構も何も、そのような理想状態においては、自由な表現は、決してグロげちゃにはならないでしょう。そのことをこそ否とするのが、たとえばkadotanimitsuruさんです。それは、ひとつの立場であり、見解であり、見識です。


人が差別され抑圧されているとき、自由主義社会では、グロげちゃな表現が咲き誇る。グロげちゃな表現が咲き誇るために差別や抑圧が温存されるべき、と言っているのではもちろんありません。社会において差別され抑圧されている人々が表現のグロげちゃを目指し実現することの意味が、自由主義社会における「基本的人権の範疇」である「表現の自由」の意味でもある、ということです。その結果としてある日本の「オタク文化」が、時に差別的であり暴力的であったとしても。そのことが、既存の構造差別と結託して新たな差別と抑圧を生み出しているとしても。再三になりますが、私はスターリンは嫌いです。むろん、このことについても是非はあります。私の立場は、複雑です。



Little my room on the Prairie - halt.

反吐が出そうか?それが正しい。今の俺のどや顔を想像して今すぐブラウザを閉じ便所に駆け込め。俺はモグラ獣人ではないし、ましてやアマゾンでもない。買いかぶるのは止めてくれ。


――私に言ってます? 「反吐が出そうか?」とかそれこそ私に対する買いかぶりです。というか、仰ることにほぼすべて同意なのですが。「差別意識は顔に出すな」が私の見解立場なので。「差別とパターナリズムと良き父性は境界なく連続している」というのもその通りと思います。「性別に関係なくみんな気軽にレイプできる社会」という言説を笑い飛ばしているわけでは私はない。


「風通しの良い社会」を私自身は必ずしも望みませんが、で、なぜharutabeさんは顰蹙承知で顰蹙を買うことを書いておられるのですか。少なくともこのインターネットにおいて「風通しの良い社会」を目指してされていることと勝手に思っていました――いや、皮肉ではなく。私が「いつも真顔で冗談言う」なら、harutabeさんは「いつも冗談の振りして真摯なことを言う」だと私は勝手に思っています。

「真に獣であれば檻に入れてよい」という命題が俺を激発させるのは、たとえ「その能力(<責任能力>(のようなもの))を明確に欠く存在」であっても未然に檻に入れるわけにはいかない、と俺は信ずるけれども、それは世間一般において自明ではあるまい、とも考えるから。安田好弘の弁護を批判した人がいた。被害者の人権はどうなるのか。無論どうにもならない。そもそも刑法は被害者を救済するためのシステムではないし、それを担って然るべき世間様は、俺は、被害者を肴に酒を飲み思う様陵辱する。俺はマジョリティの皮をかぶりマジョリティの輪の内側で俯いてヘラヘラ笑いながら生きてゆく。石を投げながら。いつまでも続きはすまい。やがて俺もまた殺されるだろう。


まったく同意です。『マイノリティ・リポート』を観て、というかディックの一連の小説を読んで、これこそ目指すべき未来と言う人はあまりいないと思いますが。

もう自由だの権利だの尊厳だのいい加減聞き飽きたんだよ。領主が領民をボコボコぶっ殺して白人が黒人をモリモリ狩り集めて官憲が被疑者をガシガシぶん殴ってた時代に見果てぬ夢として書かれた言説を現代っ子が字義通り受け取ってああだこうだ、全くお笑い種だ。お前等だってどうせ端からそんなもん信じちゃいねえんだろ。その証拠にお前等同士全然話が通じてねえじゃねえか。誰かが自由とか権利とか尊厳とか言い出したらドン引きするべきなんだよ。


私も聞き飽きたし言い飽きています。ところで、現代っ子だろうと、見果てぬ夢は未だ見果てぬままなのです。私は自由意志など不可能と考えますが、そのことを鬼首で説く人にも呆れます。いや、harutabeさんのことではなく。「現代っ子」のことを文明人と言いますが、文明人のサバルタンに対する居直りくらいろくでもないものはないと私は思っています。それこそ差別そのものだからです。harutabeさんの実存が時にサバルタンとしてあることは了解しているつもりです――むろん皮肉ではありません。私を含めて、そのような引き裂かれ方は、普通に「現代っ子」の条件です。僭越な物言いであることは重々承知です。


「お前等だってどうせ端からそんなもん信じちゃいねえんだろ。」信じる信じないの問題なら、散々述べてきたことでわかる通り、信じていませんが。つまり、自明でないことを信じようとするときドグマが発生する――Midasさんはそのことをずっと言っています。で、自明でないことと、自由だの権利だの尊厳だのという近代の達成である諸価値を社会思想の根幹に置きその実現を指向すること、それを是とすることは、別の問題と保守的な私は考えますが。私は無政府主義者ではないし、ソマリアに住みたいとも思わないし、文化大革命にも賛成しないので。


そうですね、私は自由も権利も尊厳も端から信じていないのかも知れませんが、他者という存在に対する人間としての尊重は自明でした。それが「差別意識は顔に出すな」ということですが。それは、私の欲望と他者との性愛の決定的乖離という個人的経験の産物です。散々ドン引きしながら私が延々書いてきたのは、harutabeさん流に言うなら、自身の個人的経験に対する落とし前でしょう。なお、話が通じていないのは私を含めて面々の「御勝手」が甚だしいからです。だがそれがいい、とスターリン嫌いの私は考えています。

だから誰か俺に言ってくれ。内心の自由は自明などではないと。情欲とともに女を見るものは既に姦淫を犯したのだと。俺は今そういう話が聞きたい。


では御希望にお応えして。内心の自由などまったく自明ではありません。サバンナに私たちの寝室は散々蹂躙されている――そのことが自由意志の不可能の意味なので。で、私において自由意志が不可能であることと、他者がその大草原での差別と抑圧のゆえに自由意志へと1mmでもにじりよろうとする際に自由意志の不可能を鬼首で説いて冷や水かけることは、同じことではない。他者という存在に対する人間としての尊重は私においては自明なので。


付け加えますと――これはkogeさんに対する再度のお返事にもなりますが――他者とは、このアレな社会において、社会的動物と見なされない存在のことです。そのような存在こそが真に自由意志を実現しうる、とか言い出すとありきたりな罠に嵌りますが、しかし、その大草原での差別と抑圧のゆえに自由意志へと1mmでもにじりよろうとする他者に対して、自由意志の不可能を縷説する趣味を私が持たないのは、たぶんに、蹂躙を享楽するサディストの自己批判が理由です。


私においてこの社会というサバンナは、蹂躙を享楽するアレな社会そのものとしてある。適者生存の法則においてその大草原を闊歩する社会的動物は、私が時にそうであるように、往々にして他者を捕食して涼とする。harutabeさんがそうであるということではありませんが。――と付け加えることは買いかぶりと取られるでしょうか。しかし、だからこそ、harutabeさんは「俺は今そういう話が聞きたい」と、一切御自身に限定して書いておられるのだと、私は勝手に思っています。

BE FREE!

id:md2tak  よく考えれば、被害者が自身の行動・思考について内省する自由を侵害するようになる可能性もあるなぁ。そんなこと考えてもいないんだろうけど。

はてなブックマーク - Non-Fiction(Remix Version) | [ツッコミ]にしては底が浅い


「もっと気軽に女が男をレイプできる世界になると良いね。」「性別に関係なくみんな気軽にレイプできる社会が来ると良いですね。」という別の人の発言も目にした。その人は「表現の自由」の旗幟に立つ論者だった。別れたい……ではなく。――md2takさん。


「自由」とは差別の撤廃と同時に達成されることであり、また達成されてきたことです。そして、当然のことながら、この社会では達成されていないどころか「遠い夜明け」でしかない。だから、言うまでもないことですが、陵辱表現の商業的流通と――ミニスカートがそう指されるような――「女性の自由なファッション」は同じことではない。


「女性の自由なファッション」を「性的な自己決定」とも言います。そのような性的な自己決定は、ずっと、そして今なお、抑圧されてきた。女性の身体に「性欲をかき立てられる」男性と、そのことを女性の存在へと転嫁する男性によって。21世紀の「自由な社会」にあってなお、自衛論は斯様な責任転嫁そのものとして主張されている。すなわち、このような性差別ある限り、女性にとって「自由」などない。


そして、男性にとっても「自由」などないことに気が付いた多くの男性がいる。かくて女性専用車両が取沙汰されただイケが叫ばれ「女尊男卑」が堂々主張される。自分たちで話を極端にしておいて「話を極端にするフェミが問題」とは典型的なマッチポンプですね、と私としては言うほかないけれど、しかしそれは、男性ジェンダーの差別構造に「差別される者として位置付けられる」多くの男性が気付いたということではあるでしょう。


「被害者が自身の行動・思考について内省する自由を侵害するようになる可能性」とはどういう了見ですか。繰り返しますが「自由」とは差別の撤廃と同時に達成されることであり、また達成されてきたことです。それがこの社会において達成されていないどころか「遠い夜明け」であるのは、陵辱表現の問題ではない、自由主義の名のもとに「自由」と「御勝手」を概念において取り違える人が絶えないからです。「被害者が自身の行動・思考について内省する自由」なんてのは「自由」ではない。「被害者が沈黙する自由」が「自由」でないように。「私の勝手」が「自由」の問題であるとして、「貴方の勝手」は「自由」の問題ではない。少なくともそれを公言することは。「選択の自由」とはそういうことではない。


インターネットで自衛を説く人の多くは「貴方の勝手」を前提して「私の勝手」を説いている。そこに、「貴方」と「私」の立つ位置における決定的な非対称性に対する認識はない。その決定的な非対称性を隠蔽するために持ち出される概念が「自由」なら、それは冷戦時代の旗幟としてあった自由主義ではあるでしょうが、リベラリズムでもなんでもない。私はサルトルのよい読者ではないけれど、サルトルが聞いたら卒倒するか憤死するでしょう。「自由」とは、現存する「決定的な非対称性」を撃つための概念として、少なくともサルトルにおいてはあった。

自由で自立した個人なんて、一体どこにいるのだろう。誰でもしがらみの中で、執着の中で、生きている。自由かどうかなんて知らないが、ただ、自分そのものを引き受けて生きたいとは思う。それは少なくとも、自由であることに向けて生きることではあろう、と思う。たとえ奴隷であっても、奴隷根性の染みついた奴隷にだけはなりたくないな、と思う。

個として生きること - モジモジ君のブログ。みたいな。


ポストモダニストが往々にして人間の不自由をこそ享楽するために人間の不自由を自明と縷説力説するシニシストであることは自己批判も含めてよく知っているけれど、冷戦が終結した現在、こうも自由主義者シニシズムに満ちた建前論を聞かされると、たまには私もサルトルを引きたくなる。mojimojiさんのことを言っているのでは当然ない。


「性差別は存在しない」などと私は絶対に言えない。ならば「被害者が自身の行動・思考について内省する自由」などとは口が裂けても言えない。「自由」は、自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性を「私の勝手」「貴方の勝手」へと解体することが可能な概念ではあるけれど、「では、そのためにどうするか」が同時に、それを掲げる者において問われる概念でもある。サルトルが「私の勝手」「貴方の勝手」をこそブルジョワ的と唾棄したのは、それが現存する差別と帝国主義的な権力関係をなんら解体せず、すなわち人をなんら「自由」にしないことを知っていたから。繰り返しますが、保守主義者である私はサルトルのことが好きではないですが。


つまり「自由」は、現実に存在する差別と権力関係に基づく「私の政治的/社会的身体」「貴方の政治的/社会的身体」を――その「差異」へと決して還元されはしない決定的な非対称性を――一切合財「個人」へと返却してウヤムヤにする魔法の言葉としてあるのではない。「個人の自由」という返却先においてそのことがウヤムヤにされるとき、他者の問題も、マイノリティの問題も、ウヤムヤにされる。「御勝手」として説かれる「自由」においては。


「私」と「貴方」という問題において問われることがある。「私」と「貴方」という問題から「誰か」という第三項も導き出されうる。そうではなく、「自由」の名のもとに「個人の御勝手」とその肯定に一切が回収されるなら、「誰かの御勝手」というアウトソーシングも「自由」の肯定において導き出される。「誰かの御勝手」という発想が「性別に関係なくみんな気軽にレイプできる社会が来ると良いですね。」「被害者が自身の行動・思考について内省する自由を侵害するようになる可能性もある」という発言を用意する。――むろん、これは自己批判を込めて言いますが。


「自由」の名のもとに、この差別的な社会において、「個人の御勝手」をただ肯定することは、「個人」を肯定することでも「自由」を肯定することでもない。なぜならそれは、「被害者が自身の行動・思考について内省する自由」「被害者が沈黙する自由」をも「個人の御勝手」「誰かの御勝手」において肯定することだから。


――だから。今更言うまでもないことですが、そして表現規制問題について「表現の自由」の旗幟に立ってきた論者として私には言う筋合があると思うので言いますが。

id:KoshianX そりゃそうだ、誰でも理性ぶち切れることはあるさ。性欲かき立てるポスターは排除されるのに、性欲かき立てる格好した人間を排除する必要は無いってのはバランスを欠いてる。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/shisokan/20091130/p1

http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091201/1259700298


「バランスを欠いてる」とかKoshianXさんは放言も大概にしてください。少なくともそれが「自由」の問題である限りにおいて、表象と人間は違います。公共空間に――あるいは差別的な――消費されるための性表象が溢れ返ることが商業主義に基づく「表現の自由」の帰結であったこと、而してそれが――ことマイノリティにおいて――性的な自己決定の蹂躙と指摘されていること。そのことが問題の要諦です。「バランス」の問題ではない。

id:letterdust 2009/12/11 00:06


予防拘禁」されてるのは女の方だというのは28年女をやってきて痛いほどわかってるつもりなんですが、
「(俺以外の)男は獣」というアウトソーシングされた獣を持ち出す時に「女の誘惑」で月光みたく変身されても困るし
それが嫌だからこそ「キモいオタク」を請負先に選ばれるのも黙って見ていたくはないと思いました。
思い返せば、80年代の連続幼女誘拐事件の被害者と同世代なのでそういうカースト制みたいなのにうっすら反発していたんだと思います。

お答え - シートン俗物記


この差別的な社会におけるマジョリティである私が考えていたことは――陵辱表現愛好者もまたマイノリティである、と正真正銘のマイノリティである性犯罪被害者に対して主張できるか、そもそも陵辱表現愛好者はマイノリティなのか――「キモいオタク」がこの差別的な社会におけるマイノリティであっても――ということでした。マジョリティ/マイノリティとは、単なる数の多寡の問題ではない。先のエントリに付されたkogeさんのコメントから。

「他者」を認識すること自体が耐え難い苦痛であるヒト、「対人認知能力」を持たずに生まれついたヒトであっても、同様の「人権」を持つ人間なのか。それとも、人間は「社会的動物」である以上、「社会性」がなければ「獣」に過ぎない(たとえ「獣」だというのが真だとしても、その「獣」を檻に入れること、あるいは「獣」に襲われる人間を檻に入れることの是非は別問題だとも思うのですが)ということなのか。
私には猫氏やhokusyu氏の考えは後者であり、それは私という『獣』の生存権を奪うものだとしか思えないのですが。

「獣」などいない - 地を這う難破船


「猫氏やhokusyu氏の考え」は御本人にお尋ねくださいとしか言いようがないのですが、人間が「社会的動物」であるとして、その社会が根本的に差別的なものなら?――というのが先のエントリの趣旨です。そのとき「社会適応」とは、サディストの無葛藤を贖うものでしかない。そして、そのような発想に対して、hokusyuさんも「猫氏」も、明確にNOと言っていると私は理解していますが。


社会が根本的に差別的であるとき「自由」は「個人の御勝手」とその推奨によって贖われるものか。その点について、私は「猫氏」と延々意見交換してきました。見解に、今も変わりはありません。つまりこういうことです。「個人の御勝手」が真に可能であることと、差別が撤廃されることは、同義である、と。少なくとも「自由」とは言論においてはそのことを目指すべき理念であると。


だからこそ、このとき、陵辱表現は、臨界点として問われる。自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性について忘却されているとき、「個人の御勝手」は差別を温存するものとしてある。一部の自由主義者においては、忘却されているのでしょう。冷戦終結の後遺症か、あるいは冷戦時代の再現前ということか。だから、そのような言論に対しては私は批判します。それをして「ネオリベ」と呼ぶことは、蔑称の類と思いますが。


私たちが、男性でも女性でもなくマジョリティでもマイノリティでもなく構造差別の加担者でも犠牲者でもなく真に「個人」であることは、大変に困難なことです。あるいは不可能なことです。なぜなら、この社会には、差別が存在するからです――サディストの無葛藤を贖うための「永遠の嘘」と共に駆動する現在の差別が。リベラリズムが、忘却という「永遠の嘘」において、そのことを看過する主張であってはならない。無視する主張であってもならない。それが、「キモいオタク」が請負先に選ばれることを否とするリベラリズムなら、なおのこと。地上のあらゆるイデオロギーが「永遠の嘘」であったなら、なおのこと。

「獣」などいない


http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091206/p1

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091206/p2


何から書いたらよいものか。いや、hokusyuさんに対してということではない。むろん批判でもない。


「獣」などいない。社会化された悪意に基づく人間のあまりに人間的な行為と、それによって裁かれる者しかない。そして、そのような者をもってして「獣」のレトリックを週刊新潮誌上で用いる――社会化された悪意に基づく個人の暴力を「獣」という「男性の本性」へと手間味噌に変換する――高名な作家先生がいる。その社会化された悪意がある。そういう話。そのような構造とその問題の話。その、理不尽極まりない暴力の話。それがなぜここまでこじれるか。この件について言及した人の中で、渡辺淳一の発言それ自体に同意した人を私ははてな界隈で見たことがない。


少なくともこのような場合において、理性こそ暴力的である、という話で、だから私は保守主義者なのだが。社会化された悪意に基づく個人の暴力を「男性の本性」へと変換する渡辺淳一が使用する「獣」のレトリックこそ、社会化された悪意に基づく個人の暴力を隠蔽し糊塗し欺瞞する理性による暴力そのものであり、それこそが社会化された悪意の言論における現前であり、そのような詐術に乗っかってどうする、という話を、Francesco3さんもhokusyuさんもずっとしているはずなのだが。それがなぜ予防拘禁の話になっているのか、ということについて。


自身の欲望について葛藤する人があることを私は改めて確認した。「くだらない自分語り」になるが、それが「葛藤」の問題であるならば、自分がそうであることについて私は葛藤したことがない。いや、私とて葛藤しなかったわけではない。しかしそれは、他者との性愛に際してのこと。自他の欲望が相違することは私にとって自明だったが、そしてそうした他者の尊重は私にとって自明のことだったが、しかしそれは恋愛の相手の身体に触れないことと同じことではない。サディストである私は、そしてそのことを恋愛の相手に云々する柄でもない私は、そうであるがゆえに、いつも恋愛の相手の身体を避けた。手を繋ぐことさえ嫌った。そのことを相手から責められることで、自分が人でなしであると知った。10代の頃のこと。


表現規制問題について私が改めて確認したことは、むろんこのことは自己批判を含むが、誰かを黙らせて達成される「表現の自由」など理性による暴力でしかないということ。にもかかわらず「感情的だ」「理性的でない」「冷静さを欠いている」「これだから女は」だのと相も変わらず言っている人はなんなのかと思う。誤解を避けるために明記しておくと、たとえばNaokiTakahashiさんのことではもちろんない。


誰も黙らせてはならない。「表現の自由」の旗幟に立ってきた私は、そして今なおその旗幟に立つ私は、そう考える。「誰も黙らせた覚えはない」とは、ネットのことに限らず、私は自分自身についてはまったく言えない。しかし「世の中に不満があるなら自分を変えろ。 それが嫌なら目と耳を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」という話にはまるで同意しない。それは、端的に理不尽でしかないし、社会化された悪意を裏書するものでしかない。「表現の自由」とは理不尽の別名ではない。「表現の自由」は社会化された悪意を裏書するために掲げられた理念ではない。


無神論者の私は、時に「人間の条件」について考察したアレントを引きたくなる。人間は言行における理性の有無によって価値を計量される存在ではない。檻に入れられる存在でもない。いかなる行為に及んだ人間であれ、人間は獣ではない。そして人間は自転車でもショーウィンドウの中の商品でもない。基本的人権を持ち合わせ、声を上げる権利があり、そして誰かを黙らせてはならない。


この大前提を覆すものとして、「男性の本性」として「獣」のレトリックを弄する高名な作家が言論において現前させる社会化された悪意がある。あるいは、性的な自己決定の侵害を貞操の問題へと変換する自衛論の構造がある。斯様な社会化された悪意が個人の理性的な暴力を喚起する。そして、その暴力を「男性の本性」へと変換することによって、あるいは性的な自己決定の侵害を自衛論へと変換することによって、社会化された悪意の裏書と更新は繰り返される。社会化された悪意を磐石とする斯様なマッチポンプのために、理性は使役されている。


常識とは、社会化された悪意に対する術ではあるが、公の場で言論をもってして常識を説くならば、社会化された悪意を撃つことが先決だろうと私は思う。それはつまり、社会化された悪意によって尊厳を毀損された、誰かの側にまず立つこと。繰り返すが、曽野綾子の主張がそうであったように、自衛論とは性的な自己決定の侵害を貞操の問題へと変換するものでしかない。


社会化された悪意とは何か。寝室の外で暴力を享楽する欲望である。苦痛を他者と回し飲みする杯である。そのために使役される理性は、あらゆる方便を手を変え品を変え調達する。そのひとつに「表現の自由」があったことを、自己批判と共に、私は認めざるをえない。むろん、「表現の自由」の旗幟に立つ論者がすべてそうであったということではないし、陵辱表現にのみ矛先が向く話とも私は思わない。


アブグレイブ刑務所での収容者虐待が発覚した際に『他者の苦痛へのまなざし』でスーザン・ソンタグが指摘したように、社会は、暴力を享楽する欲望に満ち溢れている。そのためにあらゆる方便を調達するべく理性は使役されている。その、社会化された悪意のために使役される理性は、個人の欲望を「獣」と措定してその場所にこそ矛先を向ける方便としても機能する。寝室の外で暴力を享楽する欲望のために、寝室が土足で踏みにじられる。他者の存在しない寝室が。だから、「表現の自由」の旗幟に立つ論者が予防拘禁を懸念することは私は了解する。けれども。


私は自身の欲望について「俺の中の獣」「わが目の悪魔」と考えたことはない。なぜなら、たとえばアイヒマンがそうであったように、暴力とはいつだって、社会化された悪意に基づく個人の理性的な行為としてあるから。そして私はそのことをとんでもないことと思っている。サディストが葛藤しないのは、それが社会化された悪意に基づく個人の理性的な行為であるから。私が考えるのは、自己批判と共に言うが、サディストの無葛藤を再生産する社会であってはならない、ということ。性差別とは、社会化された悪意の問題であって、個人の内なる欲望において問われることでは必ずしもないのだから。自身のサディズムを、内なる欲望の問題と考えたことが私はない。社会化された悪意と結託するものとしてあると考えている。そして、「男は獣」と公言する作家の行為は、社会化された悪意の言論における現前であって、性差別でしかない。


いつだって、他者との性愛に際して私が葛藤してきたのは、「俺の中の獣」でも「わが目の悪魔」でもない。社会化された悪意に基づく個人の理性的な行為とその無葛藤だった。私は私自身について、自分自身の存在や言行が誰かにとって許し難いことなど当然のことと思っている。だからこそ、私個人の生き方とその始末とは別に、そのような存在が再生産されないことを、社会の問題として考える。予防拘禁を説いているのではもちろんない。サディストの無葛藤を是とするために使役される理性が調達するあらゆる方便が、個人の理性的な行為を支えており、その結託のもとにこの社会はある。すなわち、社会化された悪意はそのようにしてある。


「サディストの無葛藤を是とするために使役される理性が調達するあらゆる方便」のひとつに「表現の自由」があったことを、自己批判を込めて、つまり私自身の言行の問題として、私は認めざるをえない。社会は、一方的な殺戮を避けるために、誰かの存在や言行が誰かにとって許し難いことを「包摂」の名においてコーティングする理念的な――あるいは歴史的な――欺瞞としてある。その欺瞞と偽善について「根源的な場所」から数十年に亘り指摘してきたのが曽野綾子だった。しかし、私はそのような社会をやはり是とするだろう。「サディストの無葛藤を是とするために使役される理性が調達するあらゆる方便」を指して「永遠の嘘」と呼ぶにせよ。「表現の自由」は「永遠の嘘」としてあったろうか。――あった。


社会は、むろん「獣」も「檻」も比喩だが、獣を檻に入れておく理念的な構成物として合意されている。真に理性的な社会においては「獣を檻に入れておく」理念的な構成物としての合意のもと、サディストの無葛藤が、社会化された悪意と結託して、あるいは社会化された悪意の現前として、有形無形のアブグレイブ刑務所を随所に生み出すだろう。ありがちな、しかし絵空事でもないディストピア予防拘禁論は、その場所に現れる。


ツケを回されるのは、むろん、理性に欠ける二級市民。私が言語同断と思うのは、性犯罪被害者が、性犯罪被害者であるがゆえに、理性的に振舞わざるをえず、いっそう理性的であることが要請される、社会とその根底的な悪意のこと。誰かを打ち据え、痛めつけ、脅し怯えさせ、貶め、尊厳を毀損する、そのために理性が使役される、自由と寛容を自称する社会の悪意のこと。


そして、陵辱表現愛好者もまた、陵辱表現愛好者であるがゆえに、いっそう理性的に振舞うことが要請される。いっそう理性的に振舞った結果が現在の事態としてあるなら、私は、私を含めた、理性的で差別的なるマジョリティによるツケ回しをこそ憎む。


性暴力は、社会化された悪意に基づく個人の理性的な行為の最たるものとしてある。性犯罪者は決して獣ではない。社会化された悪意に基づく人間のあまりに人間的な行為に及んだ、理性的な個人だ。だから裁かれる。あるいは「理性的な個人」でないなら、そのように「処置」されている。それも、あるいは差別的なことであることは言うまでもない。


問われるべきは、自身の欲望に対する自覚と罪悪感の有無ではない、懺悔の問題でもない、社会化された悪意に対する認識と、個人の理性的な行為に対する善悪のレベルでの検討だ。その理性的な行為は、あるいは理性の有無において他者を断じる行為は、時に、サディスティックな暴力ではないか、と。理性はサディスティックな暴力に対する無葛藤を贖うために使役されているのではないか、と。暴力とは、現在においてそのことではないか、と。アイヒマンは自身の行為を理性的と信じていたし、そしてそれは間違ってもいなかった。


理性の贖いは、暴力の背景において培われる。しかし現在、理性は、暴力に対する無葛藤のために使役されているのではないか。そのようなbot的な理性が、このリベラルな社会の基盤として時にあるのではないか。そうであるならそれは、マッチポンプでしかない。暴力のために使役されるbotとしての理性でしかない。性犯罪者が持ち合わせる理性と同様の。レクター博士のように、あるいはランダ大佐のように、誰かを打ち据え、痛めつけ、脅し怯えさせ、貶め、尊厳を毀損し、自身の欲望を満たすために使役される理性。自身の享楽のために使役される理性。


hokusyuさんが言われる「たましい」とは、そのことを指している。たとえそれがどれほど「高度に発達」していようと――botとしての理性の外側にあるものを。すなわち他者の問題を。マイノリティの問題を。そして善悪の問題を。私としても、耳が痛い。

「獣」のアウトソーシング


主観病者 - halt.

NightStalker俺 - halt.

b:id:WinterMute コミュニケーション, メタブにつづく  「男=獣=自分」ではなく「犯罪者=獣≠自分」、「野犬は空手で撃退」ではなく「野犬が出るので女子供は夜の森に近づかないように」という意図なんだと思う。なので「そんなこと言ってない」になる(メタブに)

はてなブックマーク - 「男はケモノ」が「女性の自衛」と結びついていること自体が差別 - 過ぎ去ろうとしない過去

b:id:WinterMute メタブックマーク   賛成はしないが、「犯罪者=獣≠自分」と「野犬が出るので女子供は夜の森に近づかないように」自体は一貫してる。だから「ダブスタだ」って指摘は噛み合わないと思う。

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b:id:natukusa 社会   「俺は男だ。男は獣だ。でも俺は獣じゃないし」と前置きして「男性を語る男性」が思いのほか多いのは、いったいどんな心理が裏に流れているからなのだろうかと、今となってはそこが一番不思議に思う。

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七人の侍』に、野武士に村が襲撃されたら手篭めにされるからと年頃の自分の娘の髪を切り落とそうとする農民の話があった。ところで私たちは戦国時代の百姓か。――曽野先生はガチで、というか確信犯として、そのレベルの話をしている。


「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」という話を、こと性犯罪に限って、わざわざ公の場で説きたがる人が多いのはなぜかという話。ま、曽野先生は性犯罪に限らずとも公の場で説きたがる人なのだが。そして彼女に――たとえば産経新聞紙上といった――公の場を与えているのは「高名な作家」をゆえとするものではない。


そして往々にして、交通事故や冬山登山の比喩が持ち出される。事故も登山も悪意に基づくものではない。「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」という話をしている自覚がないのか、それとも確信犯か。前者なら、莫迦は時に犯罪的であるな、という感想しか私としても持てないし、後者なら、そのことの悪意について自覚はあるかと問いたい。ま、曽野先生は自覚どころか百も承知だろうが、自身の悪意に対する開き直りは救い難い、と、これは自己批判を込めて言う。「自身の悪意に対する開き直りは救い難い」とは曽野先生はまるで考えないだろうが。元ネタは『フルメタル・ジャケット』だったか、「ジャングルは地獄」は「永遠の嘘」の最たるもの。


「一般論として」「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」という話を、こと性犯罪に限って公の場で説くことは、第一に「男は獣」であるという話をどこかの「獣」(=性犯罪者)にアウトソーシングする欺瞞であり、第二に自身の悪意に対する欺瞞である。その、この世に満ち溢れていると自衛論者が仰るところの悪意は、そのことを説いている御自身の悪意と同じもの。


だからこそ「一般論として」「男は獣」と説き始める。渡辺淳一とて「つまり先生は獣なのですね」と言われれば「いやいやボクは違うけど」と涼しい顔してのたまうだろう。そのような、自らの悪意に対する欺瞞が「男は獣」という既成事実を「一般論として」作り上げている。「男は獣」という物言いに違和感を覚える人が、「一般論」の名のもとにその既成事実を作り上げている、性犯罪者に「獣」をアウトソーシングする自衛論者の行為とその背景にある悪意に対する欺瞞に違和感を覚えない理由は私はわからない。悪意とは、この場合、性差別それ自体のことなのだから。


以前も書いたが、男性ジェンダーとは「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」という観念とその共有において成立するもので、この平和ボケした日本では、男性は「男」であるために「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」ことを常に確認しなければならない。そして、斯様な観念を共有するための接着剤として性犯罪が報道されるたびに女性が攻撃される。それも被害女性が。なぜなら、自衛論者が仰るこの世に満ち溢れている悪意こそ、男性ジェンダーが維持する性差別そのものだから。


性犯罪が報道されるたびに「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」と「一般論として」公の場で説いてやまないのは、挙句「自衛」とのたまうのは、「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」ことを知らない――ということにおいて規定される――「女」をダシにした男性ジェンダーの結託のためにされる定石。「男」であろうとする男性たちにおいては「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」ことを知っているのは自分たち「男」だけなので。仰る通り、この世が性差別とそれに基づく危険に満ち溢れていることは貴方がたはよく知っているでしょうね、貴方がたが作り出し「一般論」の名のもとに性犯罪者に「獣」をアウトソーシングして既成事実化させているのだから、とセクシストたちには言うよりほかないが、時に自覚がないから困る。


自覚がないなら、莫迦は時に犯罪的であるな、という感想しか持てないし、渡辺先生がたぶんそうであるように確信犯なら、その確信犯的な行為はレイピストと同様の御自身の悪意を欺瞞しているのでしょうね、と指摘しておくよりほかない。その欺瞞こそが「男は獣」という多くの(あるいは一部の)男性にとっても迷惑千万な既成事実を「一般論」の名のもとに作り上げている、と。


どこかの「獣」は、すなわち性犯罪者は、男性ジェンダーの結託のために、「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」と「そのことを知らない」「女」を攻撃するために、引き合いに出される存在ではない。性犯罪者を引き合いに出して「男は獣」と「一般論として」のたまう自衛論者の「獣」のアウトソーシングが欺瞞しているのは、レイピストと同様の「男」の悪意であり、その悪意こそ、自衛論者が既成事実とする「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」ことにおいて、この世に満ち溢れている悪意である。それを、構造的な性差別と言う。このことをひとことで言うと、マッチポンプ。そして、マッチポンプは構造的暴力をもたらす。理不尽極まりない暴力を。


この世が、性差別という男性ジェンダーの観念の接着剤としてある悪意と、それに基づく危険に満ち溢れていることを女性は知らないと本気で思っているのなら、そしてその悪意と性差別を「獣」にアウトソーシングして涼としているなら、やはり、莫迦は時に犯罪的であると言うよりほかない。


なるほど、この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている。その悪意とは、男性ジェンダーの観念の接着剤である女性を貶める悪意であり、性差別であり、レイプの温床としてある悪意である。セカンドレイプが問題とされているのは、そのような背景あってのこと。性犯罪者という「獣」に自らの悪意をアウトソーシングして執り行われる男性ジェンダーの「悪意」とそれに基づく「危険」のマッチポンプは、それは性差別以外の何物でもないからこそ、女性を貶めるものでしかない。


男性ジェンダーが「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」という強迫観念なくして成り立たないものであることは私は嫌というほど知っている。そんなものは崩壊してしまえ、とは私は自己批判もあるので言えないが、性差別を接着剤として織り込むことは勘弁していただきたいとは思う。往々にして、男性ジェンダーは自他を脅し威嚇し怯えさせ挙句貶めることによってしか存続しない。そのために「獣」が、現実の性犯罪者とその暴力が要請される。「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」ことが要請される。そして悪意が横行する。その悪意は、交通事故やら冬山登山やらの比喩を持ち出す自衛論者の悪意であり、それはレイピストと同様の悪意である。性差別そのものである。そしてそれこそが「悪意に基づく危険」をこの世に満ち溢れさせている。それをして、差別構造と言い、構造的暴力と言う。


男性ジェンダーにおける観念の共有は、たとえそれが強迫観念であれ、結構だが、自分の何かしらの満足のために自分以外の人間を脅し威嚇し怯えさせ挙句貶めることは即刻やめていただきたい。それこそが、性犯罪者の発想なのだから。「男」であることが誰かを脅し威嚇し怯えさせ挙句貶めることによってしか成り立たないなら、そのような強迫観念は、もっともタチの悪い悪意でしかなく、それは容易に差別に転じる、というよりそもそも差別を力学としてその構造を成り立たせてきたものであり、現に、それは自衛論者の悪意として被害女性に向けられている。次から次と。止むことなく。そのような差別こそ最悪と思うし、そして交通事故だの冬山登山だのとのたまっているのが無自覚なら、いっそうタチが悪い。私は無神論保守主義者だが、「リスク管理」に基づくダメ出しとか悪質な冗談も大概にしていただきたいと思う。


――と、そういう話なんですけどね。もちろん、natukusaさんは言うまでもなく、harutabeさんやWinterMuteさんのことを言っているのでも批判しているのでもない。自衛論者とは全然思わない。ただ、誤解があるようなので。そしてその誤解がこじれているようなので。「一般論」の名のもとに「獣」をアウトソーシングすることによって、自衛論者の「悪意」もまたアウトソーシングされている。「一般論として」「この世は悪意に基づく危険に満ち溢れている」という話を、こと性犯罪に限って、わざわざ公の場で説く自衛論者には、それは「貴方」の悪意であり、根深く構造的な性差別に対する加担であり、「悪意に基づく危険」をこの世に満ち溢れさせている性犯罪の源でありマッチポンプである、と指摘しておくべきことと考えます。むろん、自己批判を込めて。「鶏と卵」という話ではこれはない。


もちろん、natukusaさんは言うまでもなく、harutabeさんやWinterMuteさんが加担しているとは思わないし、そもそもアウトソーシングしてはおられない。アウトソーシングしておられないからこそ、誤解がこじれているのだろうと私は考えています。私が言いたいのは、harutabeさんやWinterMuteさんがたぶんそうであるように、そしてはてなでこの件について発言している男性の多くがそうであるだろうように、斯様な男性ジェンダーに違和感を持ち合わせている男性は、自衛論者のテンプレートな公的言説にきっちり中指を突き立てて構わないのではないかということ。忌まわしき男性ジェンダーが解体される日はいつ来るのか、と、再三になるが、自己批判を込めて。

マッチポンプはどこまでも


http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091129/1259458069

はてなブックマーク - 強姦するのが男の性なら去勢するのが自己責任でしょ - フランチェス子の日記

http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091128/1259427578


なんどめだナウシカ」「曽野先生なので仕方ない」のコンボで個人的に処理(=スルー)するつもりだったが、hokusyuさんが言われる通り、一部のブコメがひどかったので書くことにする。


「強姦するのが男の性」であることは、物理的に去勢しようがしまいが同じこと。「男の性」という言説が、現実の犯罪をもってして説かれることが意味する暴力の問題なので。「男の性」という一般論を偽装する言説が、現実の犯罪をもってして説かれることが、どのような暴力であるか。


「強姦するのが男の性」とは、「男の性」という言説が、現実の犯罪をもってして説かれることが指し示す意味を、はっきり書き表したにすぎない。その批判を、物理的な去勢を主張する暴論と読み換えることは、「強姦するのが男の性」であることが生物学的な事実と認めるに等しい。そんなトンデモ俗説を信じる人はいないと私は考えていたが。


「強姦するのが男の性」であることが生物学的な事実とエントリは主張しているのではない。渡辺淳一の発言に対する批判がそうであるように、「強姦するのが男の性」であることが「言説的な事実」としてあることを批判している。「強姦するのが男の性」であることが「言説的な事実」として存在することが、現実の犯罪を裏書し、現実の犯罪を再生産し、現実の犯罪と結託する、セカンドレイプの温床であり、レイプの温床である、と。


「強姦するのが男の性」であることが「言説的な事実」として存在することにさえ気が付かないまま「自衛」「自己責任」とその言説を「事実」として裏書することが、繰り返される犯罪と、どのように照応し、どのように連関し、どのような構造的暴力を構成するか。早い話がマッチポンプだが、その、「強姦するのが男の性」であることを「事実」とする言説と犯罪のマッチポンプは、犯罪が繰り返され続けるために賄われる「永遠の嘘」でしかなく、決して性犯罪被害者を減らしはしない。


繰り返される犯罪をもってして、「強姦するのが男の性」であることを「事実」とする「自衛」「自己責任」の言説が横行し、斯様な言説が「事実」として裏付ける「強姦するのが男の性」という観念が、犯罪を再生産する。このマッチポンプと結託は、その指し示す意味が「強姦するのが男の性」である、ということを都合よく忘却して、この国の司法さえも支配している。いまなお。


そのことを指摘されれば、物理的な去勢を主張する暴論と読み換える。便利な発想と言うよりほかない。マッチポンプをやめろとFrancesco3さんは言っている。それが差別以外の何であるかと。そのような明確な話さえ、人は了解できないものだろうか。「永遠の嘘」を本気で信じる人があるということで、そのことに驚く私もまたシニシストでしかないが。


男性ジェンダーと加害性 - 地下生活者の手遊び


ところで私は、それが「男の性」の問題であるならば、「強姦するのが男の性」と考える。tikani_nemuru_Mさんが言われるところの「男性ジェンダーと加害性」の話だが。「男性ジェンダーと加害性」の問題は、物理的な去勢の問題ではない。「強姦するのが男の性」という認識は、その「言説的事実」の横行に対する批判なくしてありえない。なぜなら、「言説的事実」の横行に加担する人間に限って、その言説的事実が指し示す意味を知らない。「男の性」の問題としての「強姦するのが男の性」という認識がない。言説と犯罪のマッチポンプの回路を断ち切る営為に私は賛成するものであるが、それは表現規制ではないとも私は考える。


私のように曽野先生を観測し続けて20年になると「曽野綾子耐久レース」というトライアルの一貫でしかこういうことはないが、まあ修行だとは思う。同種の競技に「石原慎太郎耐久レース」がある。そして、私は曽野作品が嫌いではなかったりする。『哀歌』を彼女が書いたのは『ホテル・ルワンダ』の以前のことだった。


曽野先生におかれては、世界は神の子である人間存在における善と悪の過酷極まりない闘争劇であり、過酷極まりない闘争に個人は自身の外と内において晒され、その果てに荒涼の地で見出される「愛」がある。そのために彼女はルワンダ虐殺を借り、大久保清事件を借りる。むろん、そのことに対する批判はある。問題は、文明とその偽善を論じる彼女は、人間存在における善と悪の過酷極まりない闘争劇の果てに見出される「愛」に対して、殊に近年無頓着に過ぎるということにある。


だから、当該のコラムでも、もちろん曽野先生は性犯罪を減らすために書いているのではなく、世界が人間存在における善と悪の過酷極まりない闘争劇であることを平和ボケした偽善的な日本人に説くために書いている。そこに、酷薄とも評される作家がよく知る荒涼の地での「愛」を見出そうとすることを、もはや彼女は、小説においてさえやめてしまった。いわんやその文明批判においてをや。そういうのは、原理主義と言う。他人の信心を云々する趣味も筋合も私は持ち合わせないが、保守主義者としては、文明とその偽善を相も変わらず論じる現在の彼女について、考えることがある。リベラリズムの価値についても。


私は『BLACK LAGOON』は大好きだが、「悪徳の街」での「死の舞踏」の話はキッチュなマンガの中だけにしておいてほしいと思う。文明の偽善に対する批判としてそれを説かれたところで、実際のところは、言説と犯罪の、テンプレートなマッチポンプの回路に加担することでしかなく、セカンドレイプの暴力でしかない。文明批判とは、悪徳の街での死の舞踏の話を説くことによって、世界が人間存在における善と悪の過酷極まりない闘争劇であることを指し示すことではない。なぜなら、文明とは、悪徳の街での死の舞踏を回収してキッチュなマンガに換える機械にほかならないから。というより、現実の暴力と犯罪を「悪徳の街」での「死の舞踏」とキザに修辞し消費し尽くすことによって回収するのが文明の機能であり、同時に現実の暴力と犯罪を「文学化」してみせる暴力性もまた文明の常套的な回収作業である。


『哀歌』が『天上の青』がそのような作品だったとは私は言わない。だからこそ思う。文明の恩恵を個人主義者として被りながら、文明の欺瞞を批判してやまない曽野先生が、文明の要諦としてあるそのことを忘れているはずもないのだが、と。耄碌という言葉は私は好きではない。